はてなブックマークの影響力がすごいって記事に対して、いやあ何言ってんの?はてなに影響力なんてあるわけないじゃん馬鹿じゃないの、ってブコメがいっぱい付いてて、でも私は、そうは言ってもけっこうな影響力はあると思うんだけどなあ、って思っているというようなことを書こうかとも思ったけど、よくよく考えるとその持論の根拠となるものが何一つ思い浮かばないし、だからと言ってそれでもはてブすごいんだぞと鼻息荒く語るほどの熱意もないので、はてブの話はこれくらいにして、この前に鼻息荒くして語った油そばについての話を書いていきたい。
というのもこちらのエントリー、一部ではなんとなく高そうな評価をいただきながらも、どうも私がマヨネーズをかけることを疎んでいるように読まれがちなのではないかと疑念が浮かんできたわけですね。そう、私はマヨネーズを嫌ってなんていないんですよ。マヨネーズは罪な奴だけど、それでも決して悪い奴ではない。罪人を疎んじてはいけないんだ。イエスが地上に現れたのはまさに罪人を悔い改めさせるためであり、そして私が春日亭を訪れたのはマヨネーズfeat.油そばを食べるためである。
それでは何故、マヨネーズを嫌っていると思われてしまうのか。改めて読み返してみると驚かされる。1000文字余りのエントリーの中で、マヨネーズに対してただの一度も肯定的表現を使っていない。壊れるほど愛しても1/3も伝わらないという有名な故事に対して、そりゃI love youさえ言えないでいるんじゃ伝わらなくて当然だという指摘が提議されて久しいが、ここでも同じことである。どんなにマヨネーズを慕っていても、それを言葉にしなければ伝わらない。むしろどうしてこれでマヨネーズを好んでいることが伝わると思ったのかが不思議なくらいだ。
何故伝わると思ったのか。ひとつ目はこれだ。
人間の食事ではない。豚の餌だ。こんなものを喜んで食べる奴の気が知れないぶう
「豚の餌だ」という記述の後に「ぶう」と書くことで、私が豚の餌を好んで食べるのだということを読み取れると期待した。今思えば、なんとも無茶な期待である。あまりにわかりにくい。もっと何度も繰り返し使うとか、せめて目立つように片仮名で「ブー」と書くくらいの配慮は必要だった。
一度マヨネーズの罪に気付くと、執拗に目に入るようになる
ここでもマヨネーズへ寄せる想いを表現したつもりであったが、力及ばず。だって嫌いなものだって執拗に目に入るもん。貧乏揺すりが一度気になりだすとイライラして仕方ないのと同じで、メニューボードに入り込んだギルティを許せず罰したくてウズウズしているんだと考えたって不思議はない。これまで散々に油そばを詰ってきたことを思えば、強い悪意を抱いていると考える方が自然かもしれない。
そうして今日も私は善なるマヨネーズを求め、油そばを食べる
最後はこれである。食べているんだから好きだってわかるだろという安直な発想。はじめからマヨネーズが好きだという合意を得た上での表現であれば理解できる。その後に続いているのであれば、まだ食べるのかよどれだけ好きなんだという気持ちにもなる。だがしかし、ここまでマヨネーズに対して取られていた表現は総じて否定的なものだった。これでは伝わるはずがない。
結局「罪人裁くべし」という最初に固まったイメージを覆すことの出来る表現は皆無だった。「美味しい」という直接的な表現を一度くらいは持ち出す必要があったかもしれない。「味は美味しいんだけど、しつこすぎる」程度にも褒める描写が一度としてなかった。はじめからマイナス評価だという先入観を持って読み始めると、それを覆すチャンスが無い。「味は良かった」旨の記述さえできないのは甘えである。私の意図通りに読まれるに違いないという甘えがあった。しかし現実にはどうだ。実際に文章を読むのは"ぶぶか"がウマイだとか言い出す程度の水準の人間なんだ、とか最後に書こうかと思ったけど、どう書き直してみたところで感じ悪いだけでちっとも面白くならなかったからこれ以上"ぶぶか"の悪口を書くのはやめて、ここで筆を置くことにする。