自分がイレギュラーとして排除されるとイラッとする

私は(物語としてではなく情報として)個別的具体的な話には関心が薄く、一般的抽象的な話を好む。理由は簡単でキリがないからだ。たとえば豆腐は白いって書くと、白くない豆腐もあります!って言われるわけじゃん? そんなん知らねえよ、って話なわけ。そりゃあ色んな豆腐があるんだから、黒い豆腐もピンクの豆腐もあるかもしれないし、厳密に言うと薄いベージュなのかもしれない。もしかすると豆腐とは私自身なのかもしれない。でもそんなこと知ったこっちゃないんだよ。お前の目の前にある豆腐が何色だろうと、お前の目には何色に見えようと、そんなイレギュラーはどうだっていい。総じて豆腐は白い。それだけで十分。極稀に白くない豆腐があったとしても、極稀に例外があるという情報だけで用は足り、ラテストの備長炭入り豆腐が黒いだとかそんな糞の役にも立たない情報は積極的に排除していくべきだと思っている。我々の持てるリソースは限られている。
 
ただ排除されるのが自分自身だとすると話は変わってくる。いや、変わってはこない。排除すべきだと理解はできる。頭で理解できても、パッションがそれに抗う。ふざけんじゃねえ。たとえば二十歳そこそこの若造が自分エロ本買ったことないッスと白状する。それに対して三十間近の兄ちゃんたちがああ世代差だなって言う。平たく言ってふざけたこと言ってんじゃねえよって話なわけで。こちとら齢三十を越えてエロ本なんて一度も買ったことねえよ。勝手に世代のせいにしてるんじゃねえよって。そんな感情が湧き上がってくるんだけど、でもエロ本を買ったことがないということの方がイレギュラーであることは十分に理解できる。エロ本を買うか買わないかの違いが世代差に因るのかどうかの問題はとりあえず置いておいて、私の世代でエロ本を買ったことがない人間が少数派であることは理解できるし、それはきっと無視すべきほどの少数であることは想像に難くない。そんなイレギュラーは排除して、なかったことにしてしまった方が有益であることは頭では理解できる。理解はできても、ふざけんじゃねえって感情が湧き上がる。そういうアンビバレント