私の知る限りでは、「インターネットが自由」というのはリバタリアニズム的な自由であり、もっと言えば自然状態に近い自由だった。好き勝手に振る舞うことができるが、その一方で他人からも何をされるかわからない。何をされるかわからないとはいっても、インターネット上でできることなど高が知れている。リアル情報を掴まれさえしなければ、罵詈雑言を吐かれるのがせいぜいだ。心を強くさえ持てれば、事実上インターネットでは何をしても自由だった。
だけど、そうではなかったらしい。昔は違ったのだという。私がインターネットを使うようになったときには既にGoogleも、はてなも、2ちゃんねるもあったけれど、恐らくはそれ以前の話。かつてインターネットは批判されることなく自由だった。
そんなことがあり得るんだろうか。うまく想像できない。人がいれば意見対立は避けられない。夏がダメだったりセロリが好きだったりするのね。考え得ることとしては、礼節が重んじられていたから、ネチケットが行き渡っていたから批判されることがなかったということだろうか。でもそれって本当に「自由」なんだろうか。もしかしたら"私は"自由に振る舞っていたけど、"相手は"気を遣って言いたいことを抑えていたんじゃないだろうか。だとしたら前にfujiponさんに言われていたような強者の論理であって、インターネットが自由だったわけではない。
もしくは本当に意見対立がなかったのかもしれない。誰もが同じ趣味趣向を持っていたので、衝突することがなかった可能性。テキストサイト時代、あるいはそれ以前の時代はインターネットが狭かったという話は随所で聞く。現実社会にどこか馴染めないところがあり、電脳空間に楽園を求めてやってきたオタクたち。オタクじゃないにしても、黎明期のインターネットを利用して、積極的にコミュニティに参加する人なんて変わり者のマイノリティだろうし、その中でも趣味の近い者同士が集まりやすいだろう。似た者同士ばかりが集まっていたので意見衝突が起こらなかった。ただ仲間内だけで好きなことを語り合った。SNSはもちろん、検索エンジンさえ不十分な時代に、それが外に漏れて批判に晒されることもなかった。そういうことなら十分に考えられる。
でも誰もが同じ考えを持ったインターネットって絶対つまらないと思うんだ。これは完全に私の主観だから、いいや絶対そのほうが面白いんだって人だってたくさんいるだろうけど、私は違った人がいっぱいいるインターネットのほうが好きだ。インターネットの楽しみ方って人それぞれだろうけど、私は自分と違う考え方を見つけるのが楽しいと思っている。前に書いた変態端末オフ実況とかめっちゃ楽しかったし、ああいう出会いがあるからインターネットが面白い。ニュース記事に思いもよらない角度から批判しているのなんて、絶対ネットでしか見られないし、そういう書き込みを目にするといいものが見られたと思う。
だから私は「誰にも文句を言われることがない」「自由」というのがまったく魅力的に思えない。もちろん文句を言われないことそれ自体は魅力だけれど、多様性が失われることとバーターならば、多様なインターネットのままであってほしい。排他的な言論空間を望むなら、会員制の非公開サービスでやればいい。