面白くはあるけど

そんなに面白いだろうかという疑問がまず私にはあって、しかし"そんなに"ってどれくらいだよ定量化しろよボケがと言われてしまうと返す言葉もなくこのエントリーは終わる。
2017年冬アニメで一番の話題をさらったのは「けものフレンズ*1だった。可愛らしいキャラクターの、ごく王道的なストーリーが、チープなCGで描かれた作品だ。それはたしかに面白い作品だった。奇抜な物語展開ではない。各回も、全体を通しての進行も、オーソドックスな展開がとても丁寧に描かれている。それは画作りの残念さとは対称的だった。映像が残念であるがゆえに余計に物語が映えて見えたのかもしれない。CGは残念だった。動きは大味で、背景は空疎だった。ハァハァするサーバルちゃんのおなかの動きには製作陣の熱意を見たが、まぁそれくらいだった。
そんなけものフレンズTwitter中心に異様に盛り上がった。所謂けもフレ構文。"すごーい "とか、"たのしー"とか、そういうやつだ。"○○なフレンズなんだね"という構文は煽りにも使い勝手が良さそうだったが、実際には肯定的な使用が目立った。私の想像以上に作品が愛されていたということなんだろう。はじめはネタかと思っていた。たしかに面白い作品ではあるけれど、そんな全肯定すべきものではないだろうと。ところが最終話前後での盛り上がりが異様だった。あれはネタではなかった。マジだったんだ。いや、はじめはネタだったのかもしれない。それがいつからか作品に惹きつけられ、本気でカバンを心配し、最終話を待ち焦がれ、そしてこれからも続く二人の冒険に安堵したんだろう。
ネタかと思っていた"すごーい"。そのミームから作品に入った人も多いだろう。私は、いったいどんな馬鹿みたいなアニメなんだろうと思っていた。けれども実際に視聴すると、そんなネタフレーズを連呼するものではなかった。ミームからの想像よりもずっと真っ当なアニメだった。どうして彼らの脳は溶けてしまったんだろう。

例えばミライさんのメッセージを真剣に聞いて理解しようとするかばんちゃんの横ではサーバルちゃんが「よくわからなかったねー」と言っている。これは「視聴者は全てを無理にわからなくてもいいよ」という暗喩になっていると思った。わかるフレンズもいて、わからないフレンズもいて、みんながどったんばったん大騒ぎして、わからないフレンズがわかるフレンズに「君をもっと知りたいな」と言える。そんな世界がジャパリパーク

けものフレンズという神話 - さよならドルバッキー

 


このレビューを読んで納得した。そうか、わからないことがこわいんだって。
アニメを見ても、そこに描かれているものすべてを理解することなんでできない。すべてどころか、理解できていないことのほうが多いだろう。仮に理解できたとして、それを言語化するのがまた難しい。だけれど、インターネットに散見されるレビューではしばしば素晴らしい考察が記されている。自分にはそんなもの書けない。だからネットに作品の良さを書き込むことはない。それだけじゃない。みんなレビューに書かれていることを理解した上で鑑賞しているのかもしれない。アニメを見て、自分だけがその魅力を理解できていないのかもしれない。だってあのセリフ、何のことだかわからなかった。きっと自分には作品を見る資格がないんだ。もしかするとそんなことを考える人もいるのかもしれない。そこまで悲観的でなくても、よくわからないことをよくわからないまま放置して楽しむことができないという人は、きっと少なからずいるだろう。だとすると、けものフレンズはそういう人たちにとって福音だったのかもしれない。
"すごーい""たのしー"という言葉があふれる。小難しい講釈を垂れる必要はない。たった四文字の記述がレビューとして成立する。今まで伝えたくて、でも出てこなかった言葉は、たった四文字で十分だったんだ。そうしてはじめて呟かれる、"すごーい"。その気持ちを共有する喜び。アニメから得られた体験が、さらにアニメ自体への評価を上げることに繋がっていったのではないか。今思えば"ガルパンはいいぞ"も同じだったのかもしれない。多くの鑑賞者が競ってその言葉を呟いた。今回はテレビアニメということもあり、その広まりはさらに大きかった。作品を評価するハードルが下がることで、多くの高評価が集まり、その共有がさらに作品の評価を高める。
その現象を気持ち悪いとする評価*2が出てくることも理解できる。一歩離れたところから見ると、その熱狂は異様に見える。アニメの評価は、そのアニメ作品自体のみに拠るものでなければならないのか、そのムーブメント等を含めて評価すべきなのか、という問題もある。含めないとして、社会風刺や他作品のパロディはどうあつかうのか。いったい誰が適切に切り分けて評価することができるんだろうか。