思考の前提となる認識が間違っていたら、どんなに考え尽くしても正しい結論は得られない。当たり前のことのようではあるが、だがしかしちょっと待ってほしい。はたして私は何かに対して真に正しい認識を持っているものなどあるだろうか。よく死に損ないの爺さんが心配する親族に対して、自分のことは自分が一番良くわかっているみたいなことを言う。本当に言うのか知らないが、そんなシーンをドラマでよく見る。具体的な作品名は挙げられないけど何度かみたことあるような気がする。もうそういうのがよくある体にして話を進めよう。爺さんはよくわかっていると言うけど、私は自分の体のことなんてちっともわからない。自分の体温も血圧も心拍数も血糖値もわからないし、それが普段と比べてどうなのか、標準値と比べるとどうなのか、ちっともわからない。腹が減っているのはわかる。体がエネルギーを欲しているんだ。そう思ってモリモリ食べるとブクブク体重が増していく。どういうことだよ、もっと食べろという合図じゃなかったのかよ。もうお前が何考えてるのかわかんないよ。
オーケーわかった。人体の神秘は現代科学でも解き明かされていない部分が多々ある。ここで例示には不適切だったかもしれない。もっと馬鹿でもわかる例を挙げよう。"1+1"はいくつだろう。これならどんな馬鹿でもわかる。答えは"2"だ。何故か。それは1に1加えたものを2であると定義したからだ。どんなときも例外なく答えが定まるので抽象概念は便利だ。だけれど、である。我々は本当に1を正しく理解しているんだろうか。たとえばよくある話題に、"0.99999…=1"なのかというものがある。1を3で割ったものが"0,33333…"であり、その3倍が"0.99999…"なのだから当然に"0.99999…=1"だと言われる。本当にそうだろうか。"0.99999…"は1よりも"0.00000…"だけ小さいはずではないだろうか。近似ではあるけど、イコールではないんじゃないの? そう言われたら返す言葉がない。私は"0.99999…"が1であることを知っているだけであって、理解してはいない。
実は私は"1+1=2"でさえ真に理解してはいなかったんだ、という極論を言っても仕方ない。すべてをすべて正しく理解することはできないんだから、複雑な事象を考えると、微々たる間違いが重なっていって、導き出される結論がどうしてもズレてしまうことがある。あるいは、理論上は正しいはずなのに、現実はそれに重ならない。だからといって理解を深めようとする試みが無駄だというわけではないけど、途方もない道程に嫌気が差すこともあるよねという話。