これ流し去らないでストックしたほうがいいような気がした。
なんか読んでるとどんどんしんどくなる評だな。「不快にさせるもの」を取り除くのは仕方ない、ハッピーエンドもいいだろうし、エロオヤジが出ないのもまだ許せる。芸術の才能はダメだろ。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
汚いところを削ぎ落とすのはさ、作品の趣旨は変わっちゃうけど、まあわからなくはないけどさ、
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
障害者へのステレオタイプを煽ってくる改変はさすがにダメだろ。
それやるなら原作使わないでもう自分で書けって。
フィクションなんだから必ずしも現実を描く必要なんてないんだけども、だからってそれとこれは違うよなあ。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
基本的に私のスタンスとしては、作品の媒体が変わる際に原作を忠実に描く必要なんてないと考えていて、だからここでも、ある程度は譲歩しながらも、それでも許せない点を語っている。原作においてきちんと描かれていた部分を、アニメ化するにあたって削ぎ落としただけでなく、障害者をステレオタイプで描き、差別の再生産を助長していることは許せないと思ったのだ。
ジョゼの件、考えてるんだけど、ちょっとわからなくなってきた。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
私は原作を読んでなくて、犬童映画しか知らないんだけど、あれの主題は障害者女性のリアルではないよね。恋愛のほうが重いと思うんだ。そこでジョゼの障害のあり方にそんなに拘る必要があるのかなって。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
どんな作品であれ、映像化すると原作とは多少の相違はあるもので、むしろ表現メディアが違うのに原作に忠実に描きすぎても、面白くならないことが多い。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
だからって原作と設定や主題がかけ離れてしまっては、それは同タイトル作品ではないよね、ってことにはもちろんなる。それは作品を見てから考えることのような気がする。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
障害が主題ではない作品で、障害の描かれ方で云々するのはちょっと違うような気がしてきた。
岩井俊二の打ち上げ花火がアニメ化で、あれは同タイトルを冠すべきでない変わり方だったので、
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
その不満と重ねてしまっているところが正直あったと思う。
あれは"if"の物語であったはずが、その根幹から崩されていた。
ジョゼは私には邦画を見るようになったきっかけの映画でもあって、打ち上げ花火どころでなく思い入れの強い作品なので、あまり大きく変わっていてほしくないのが正直なところ。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
だけど原作や旧作と違うことを理由に新作を否定する老害にはなりたくない。違いがあれば、そこから生じる良さも悪さもあるはずで、そこを評価すべきなんだよね。違うことそれ自体が悪いわけではない。
— 近田(うし) (@chikada06) 2020年12月26日
実写ジョゼは素晴らしい映画であって、そこでは障害者女性の生々しい現実が描かれている。でも、障害者女性のリアルが描かれているからジョゼは素晴らしい映画なのか。そうではないな、と思った。障害を主題とした作品でないのであれば、障害を描いた部分に改変があっても、それは非難される謂われは無いのではないか。
現実的な汚い部分を描かないことで、作品自体のリアリティが失われて、駄作に変わってしまっている可能性はあるだろう。そうであるならば、改変したことを責められるの当然だ。でもそれは、作品を観てから評するべきことだ。観た上で、駄作であればそう批判するべきなんだ。見る前から、描き方を変えたことそれ自体を責めるのは違うのではないか。
というのがひとまずの私の結論であって、でもきっとこの映画、見ないんだろうなあ。