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現代の規範が普遍であることを証すものは何もない

東京では雨の日が続いているけど、高知は空気が乾いているのか今日も相変わらずよく燃えている。それが仕事だとはいえ、よくそれだけの消耗戦を続けられるものだと感心せざるを得ない。
 
著作権フリーを求める声も最近ではさほど珍しいものでもない。はてなブックマークのコメントでもたまに見かける。どこまで本心で主張しているのか、はたまたただの逆張りなのかわかったものではないけれど。
 
著作権が正当な権利だというのは、普通の大人にとっては説明するまでもない当たり前の話だ。著作権がなければ著作物を制作することの報酬が得られない。より大きなプレイヤーの前には、小さな著作者は市場に並ぶこともできなくなる。
 
反論もまた著作権は強者の既得権益だと言う。それは持てる者の傲慢だと。それは旧時代の規範であり、もはや現実に則したものではない。より自由な経済活動を可能にする新しいルールが必要なのだと。
 
国産の検索エンジンを作ろうという動きがあった。情報の分別を外国企業に任せてばかりではいけないという。そこでひとつのネックになったのが著作権法だった。旧い時代のままの著作権管理では、グローバル企業と同じ土俵に立つこともできなかった。
 
インターネット空間では、若い人たちが旧い権力と戦ってきた。小さなところでは無断リンク論争から、さらには行政の情報公開を求めたり、最近ではネットでの選挙運動が解禁されたりもした。
 
不思議なことに、あのころ老害と戦ってきたプレイヤーが今も舞台に上がり続けている。あのころの若者が中年になっても、彼らこそがインターネットの代表であり続けている。そこに20歳前後の若者の姿は見られない。彼らは新世代の代表のような顔をしているし、我々もそう見てしまいがちだけど、もはやデジタルネイティブにとって彼らが、そして我々こそが、老害なのかもしれない。
 
情報はフリーに成りたがっていると言われる。私は情報ではないので、彼らの気持ちは知り得ない。きっとフリーになりたい情報も入れば、そうじゃない情報もいることだろう。
 
著作権が普遍の権利なのか、それとも旧時代の悪習なのか。それはきっと時代が決めることだと思う。だからといって後の時代まで沈黙を貫くべきなのかといえばそうではない。我々には同時代人として自らの価値観を歴史に刻む責務がある。もし我々が老害であるというのなら、老害らしく我々の道徳をプロパガンダしていくべきだろう。そして時代に押しやられたら潔く散っていけばいい。