ユーザー同士のやりとりでその認識に違いがあるということを指摘した記事だったんだけど、早々に消しやがって、ただまあ今はまだgoogle先生に頼めばキャッシュも出してくれるのであれなんだけど、そこで何が気になったのかと言うと、認識の齟齬を訴える文章にしてはずいぶんと伝わりにくい文を書いたなという自分のことを棚に上げたツッコミと、もういっそのこと自分をわかってもらいたいとかそんな煩悩捨て去って早く解脱したいよねって話。元記事の内容に踏み込む気なんて一切ないのでこちらに延焼させないでください。火気厳禁です。
冒頭の「俺が匿名ダイアリーに書くときは必ず、「これは増田虎達が書いたんだな」とわかってもらえるようにしてます」からして、お前のそんな基準なんて知ったことかという話だし、だいたい「「これは増田虎達が書いたんだな」とわかってもらえる」とは何なのか。である調の短文で書かれていることなのか、「障害のある兄」の話のことなのか、それとも主張内容のことなのか知らないけど、どうして自分のことをそんなに理解されているという前提で主張できるのか。
また些細な事ながら気になったのは「ハンドルネーム」という言葉の使い方。ハンドルとネームが同義なのに重複しているとかそういうことではない。ハンドルでもネームでもハンドルネームでもどれでもいいんだけど、普通その言葉は文字列を指す言葉であって、人物を指すことはほとんどない。リアルの人物とは異なるバーチャルな存在という意味での使い分けであるなら、キャラクターという言葉を使うことが多いように思う。その単語選びで相手が話を誤解するということは流石にないだろうけど、単語の一般的ではない使い方は相手の理解を妨げてしまう。
これは別に虎達さんを責めているわけではない。そういった俺ルールは私自身も使っている。たとえば私が「正義」とか「正論」という語を使う場合には一方的な価値観を揶揄しているときがほとんどだ。「俺ルール」という言葉もどれだけ一般に使われているか知らないが、ここで当然のように使っている。
そもそも人間は感情をダイレクトに伝えることができず、必ず言語かそれ以外の何らかのメディアを通さないと伝達することができないので、コミュニケーションには原理的に齟齬が生じるものだ。
この一文だけでも誤解の要素はたぶん数えきれないほどあって、まず「感情」って単語を使わない方が良かったかもしれない。情緒的なものは伝わらなくても理性的なものは伝わると私が思っているんじゃないかという誤解の余地がある。感情でも感覚でも思考でも認識でも知識でもそれを完全に伝えることはできない。もしかしたらメディアという言葉も勘違いされやすいかもしれない。ここでメディアというのはもちろんTVや新聞とは関係なく、意思伝達の媒体という意味であり、たとえば言語であり、あるいは表情だったり声色だったりボディランゲージだったりする。でもこんな注意書きを一々書いてなんていられない。そんな文章誰も読みたくないだろうし、書きたくもない。だからどこかでスッパリと諦めなくちゃいけない。
諦め方にもいくつかある。誰もに伝わることを諦めたのが専門用語だ。たとえば私たちはセメントの固まったものを漠然とコンクリートと呼んでしまいがちで、下手したらセメントとコンクリートさえ混同してしまうけど、その認識は間違っているらしい。コンクリートはセメントと砕石と砂を混ぜて作ったもので、セメントと砂だけのモルタルよりも強度が増す。これを間違えてしまっては建物の強度が変わってくるので、誤認のないように専門用語でしっかりと定義される。より正確には砕石は粒径が5mm以上、砂は5mm以下のものが85%以上でないといけないとかなんで俺はこんなことを書くためにわざわざこんなもの調べているんだ。専門用語は知っている人にしか伝わらないが、知っている人にとっては誤解の余地が小さくなる。誰にでも伝わることを諦め相手を限定することで、より正確なコミュニケーションを目指す。
もうひとつには、完璧に伝わるのを諦めるという手もある。たとえばアメリカでビジネスをしようとすると、ネイティブのような完璧な英語力に憧れ、目指してしまいがちだけど、日本語話者らしい訛りを残していた方が、相手と仕事を進める上で有利になるという話を以前にどこかで読んだ記憶があってさっきからそれを探しているんだけどちっとも見つからない。なんで訛りがあった方が良いのかというと、ネイティブのような発音を身に付けてしまうと自分のことを相手はアメリカ人としてみなし、当然に持っているだろう語彙や教養、コンテキストを前提として話をされてしまう。ところが日本語訛りが残っていれば、あくまで外国人なんだとみなされ、例えば難しい言い回しは避けられ、伝わりにくいジョークに悩まされることもなく、こちらがある程度失礼な物言いになっても許してもらえる。要するにコミュニケーションのハードルが下がり、ゴールが近くなるのだ。すべてを伝えることを諦めることで、本当に伝えたいことだけは正しく伝わる可能性が高まる。もちろん外国人との会話に限らない。すべてをわかってもらおうとするから伝わらないことに苛立ってしまう。そうではなくて、人と人とのコミュニケーションなんてだいたいが伝わらないものなんだ。伝わらないものなんだ。
そもそも伝わらないものなんだという前提に立つことで、伝わらないことに対するストレスも和らぐだろうし、伝え方も変わってくるはずだ。そうすることではじめて伝わることも出てくるかもしれない。