悪はすべての人に憎まれなければならないのか

BBCYouTubeチャンネルに日本語字幕のついたドキュメンタリーが上がっていたので見てみた。

 

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BBCが扱うまで国内のほとんどのマスメディアが、その事実を知っていながら積極的に報じることがなかったという問題はたしかにある。事件を過小評価しているのか、単に需給の問題なのか、あるいは報じることのできない事情があったのか。それは構造の問題であり、もしかすると社会の闇と呼ばれ得る何かが潜んでいるのかもしれない。

 

 

でも、元ジュニアの人、彼らと喜多川氏の関係は個人的なものであるはず。客観的に見て性的被害者であったとしても、個人間には信頼関係があったたんだとして、なんら不思議はない。

それなのに、自分が被害を受けたのに加害者に憤っていないのはおかしい、喜多川氏をもっと嫌悪すべきだと言わんばかりの記者モビーン氏の姿勢は何なんだろう。誰だっていいところも悪いところもあって、喜多川氏は悪いところが飛び抜けてはいたというだけだろう。それを社会が批難しないのがおかしいというならともかくも、当人が(個人的な関係において)嫌悪しなければならないというわけではなかろうに。

 

 

たぶんなんだけど、小児性愛への嫌悪が我々の考えるそれとは違うんだろうな、と思う。彼独特の正義感なのか、欧米社会に広く根付いているものなのかはわからないけど、なんとなく後者のような気がする。どんなにいい人で、どんなに有能な人でも、小児性愛者であるなら許してはならないという正義。ナチスの業績を部分的にでも肯定してはいけないとされているのに重なる。

ビーン氏がそうした正義感を持つのは結構なことだし、そうしてこの問題が報じられるようになったのは意義深いけれども、同じ正義をシェアできない人を「狂っている」というのは違うんじゃないか。私には、そうした姿勢も同様に狂っているように見える。