主観論には主観論なりの論理が必要であるという話

人間の数だけ真実があるとする人文主義を愛する者としては、このデタラメ理論はきっちりと反駁しておかなければならない使命感を強く抱いた。
 

大事なのは、データではなく、私たちの実感である。
そして、私たちの実感からいえば、凶悪犯罪は間違いなく増えてる。
では、犯罪の件数自体は減っているのに、なぜ私たちはそのように感じるか?
答えは、命の価値が上昇してきているからである。

 若者による凶悪犯罪が増えてるという認識は100%正しい

 

この辺りはかなりワクワクして読んでいた。

でも、結論から言ってしまうと、ダメダメだった。認知世界の話は好物の類なんだけど、この増田の論理はあまりに雑。実感を最重視するのなら、実感に基づいた綿密な論理が必要なわけで。
 

これは地球規模で、そして歴史的な規模で進行していることであるが、
私たちは過去に比べて圧倒的に死ななくなっている。
病気で死ななくなった。事故で死ななくなった。そして、事件で死ななくなった。
私たちは、人類の歴史上、もっとも死から遠ざかった不死に近い人類なのである。
凶悪犯罪という行為は、そんな死ななくなった私たちを殺す行為なのである。

 

 
つまり、以前よりも水の量はいくらか減っているかもしれないけど、コップが小さくなったから、水が増えたように見えるよねって話だ。あるいは、10ドルのケーキが8ドルに値下げされたけど、1ドル90円だったところが120円になってるから、実質上900円から960円に値上げしてるよね、って喩えの方が数字に強い人には理解しやすいかもしれない。凶悪犯罪の多寡は事件の件数だけで測れるものではない。犯罪1件の存在感が大きくなっているのであれば、同じ件数だったり多少件数は減っていたりしていても、凶悪犯罪が増えていると言うことも可能であるかもしれない。
ただそのために必要な条件がある。犯罪件数減少よりもずっと大きい幅で、死が減っていないといけない。
 
私たちはどれだけ死から遠ざかったのか。厚生労働省の人口動態統計の年間推計から年間の死亡数を追いかけてることができる。

http://www.lib.uoeh-u.ac.jp/%E5%8E%9A%E7%94%9F%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%9C%81%E3%81%AE%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E7%96%BE%E6%82%A3%E6%8E%A8%E8%A8%88.pdf


pdfの4ページ目を見ると、2013年には127万5,000人が死亡しているのがわかる。では、たとえば50年前にはどれだけ死亡数が多かったのかと言えば、1963年には67万770人が死亡しているが、これは2013年よりもずっと少ない。50年前よりも現代の方がずっと死に溢れているという結果になる。

 

若者による凶悪犯罪が増えてるという認識は100%正しい

52~62年の年平均死亡者数が79万人で殺人被害者数が1610人で0.2%、02~12年だと死亡者数が123万人で殺人被害者数が604人なので0.05%。厚生労働省の死亡疾患推計http://bit.ly/18A3GR0 殺人事件被害者数|年次統計http://bit.ly/18A3KjC

2015/03/11 20:50


 
もうこの時点で解散案件ではあるが、さらに少年犯罪に限定して見てみる。

各年犯罪白書

すると、1963年には387人、2013年には56人となる(但しこの数字は被害者ではなく加害者の数字である点には注意が必要である。一人の加害者が複数の被害者を生んだ事件も含まれるだろうが、無視して良い程度の数字だろう)。計算すると全死者数の内で少年犯罪に因るものが1963年には約0.058%、2013年には0.0044%となり、一桁以上の差が出てくる。
現代が死から遠ざかったことを根拠とした若者による凶悪犯罪が増えてるという主張は完全に誤りである。
 
 



 
では、増田はどう主張すれば良かったか。
若者による凶悪犯罪が増えてるという認識は間違っている。しかし「増田が若者による凶悪犯罪が増えてるという認識を抱いている」ということは否定しようがない。なので「若者による凶悪犯罪が増えてるという認識は100%存在する」という主張であれば誰も否定することはできなかった。それでもここで百分率が何を意味するのか不明ではあるが。
 
もう少し増田の意図を汲もうとすれば、「命の価値が上昇してきているから」までなら肯定することもできるかもしれない。しかし、その次に出される「私たちは過去に比べて圧倒的に死ななくなっている」は虚偽である。たしかに寿命こそ伸びたが、それでも誰も死から逃れることはできない。むしろ人口が増えた分だけ、死亡者数も増加している。しかし、私たちはかつてほどに死を身近に感じない。それは死がタブー視され、外部化されてきたからではないか。
もちろん昔から死はタブーであり、積極的に死に触れることは避けられ続けてきた。死は日常に入り込んできてはならないものであり、その区別を付けるために大袈裟な儀式が執り行われてきた。たとえばそれは納棺であり、通夜であり、葬儀であり、法要である。かつては当然に自宅で行われたこれらの儀式も、今では葬儀場などで行われることも増えてきた。儀礼が外部化されることで親族の死に対して当事者性が薄れることもあるだろうし、隣人の死については気付きもしないケースも増えている。以前よりも死は増えているにもかかわらず、その認知件数は減っている。
決して「誰も死なない時代」になったのではない。死から目を逸らしてきていたのである。それにもかかわらず凶悪犯罪のニュースは否応なしに目に飛び込んでくる。だから凶悪犯罪が増えたように認識されてしまう。こうした主張であれば否定もしにくくなるのではないかと。