なんで誰も教えてくれなかったんだ

iPhone用のTwitterアプリOre2がすごく便利だという話。

Pawooから、アプリもうすぐ止めるから替わりに新しいやつ見つけとけよ、という通達が来た。
おそらくは更新しなくなるだけであって、すぐに使えなくなるわけではないだろうけれど、Pawooアプリに不満が無いわけでもなかったので、乗り換え先を探していた。
いくつかの有名アプリを検索しては落としてみたけれども、そのときに関連アプリとしてストアに表示されたのがOre2だった。

www.itmedia.co.jp

説明を読んで少し興味が湧いたのでググってみたら、上記のページが出てきた。
どうやらもともとはTwitter用だったものを、Mastodonにも対応させたものらしい。
Mastodon複数アカウントも、Twitterも、そのリストも、すべて並列にタブで管理し、それを左右のスワイプだけで往き来することができるという。
これはめちゃくちゃ便利じゃないか。
そう思って落とした。
折角だから240円の有料版を落とした。
するとどうだ。
実際に使ってみると、想像以上に便利だった。

動作がすごくスムーズだ。
左右のタブの切り替えも、上下のスクロールも、すごく快適に動く。最近Pawooで起こりがちだった急なジャンプもないし、タブの移動もBunchoよりもスムーズだ。
NSFWなどは設定で常に表示にできるのも便利だし、でも画像はかなり小さく切り取られてしまうのは少し残念。
通知やマイページをタブに設定することはできない。
でもそんなこともすべて、この軽快な動きというメリットが凌駕する。すごく使いやすい。
タイムラインで見かけたトゥートを、別アカウントでブーストできるメリットも強い。
これはもっと広く使われるべき便利アプリ。

死に損ないのwebサービス

もうなんだったか忘れたけど、自分のブックマークから何かを探していて、そのときにあったのがshortnoteを紹介した記事だった。

 

b.hatena.ne.jp

 

Noteは今でも栄えている人気サービスである一方で、shortnoteはもはや死にかけのサービスだ。廃止が決まっていたところを、今の運営会社が買い取ったことで、なんとか存続している。*1

 

何故かピンと来た。
これといった理由はなく、使ってみようと思えた。
そうして最近はブログよりもshortnoteを書いている。

 

ブログを書くということにどこか重さを感じる。
ブログは本来的に日記投稿サービスであるはずだった。
しかしそれを公開し、多くの人に読まれることによって、個人の日記レベルだと罵られる理不尽が発生する。
こうして文字で書けば、それは理不尽だと多くの人が思うだろう。
でも実際に、私たちはブログを読むときに、個人の日記以上の何かを期待しているのではないだろうか。
それが紛れもない個人の日記であったときに、がっかりしないと言えるだろうか。
彼はそれを言葉にしただけであり、私たちも無自覚に同じ思いを抱いているのではないだろうか。

 

抗うべきなんだろう。
べき、という表現は正しくないかもしれないけれど、そうした観念には抗うのがid:hungchangではなかったか。
本来のブログのあり方を取り戻すために、あえてくだらない投稿を重ねるのが私の性分だったように思える。

先日も思ったものだ。
ネタバレレビュワーを庇う増田*2*3に付けられたブコメを読んで、今後もネタバレレビューを書き続けようと強く誓った。
またはチケット不正転売禁止法でも、時間と体力さえあればカルテルの合法化だと罵るエントリーを書きたい気持ちは今でもある。*4

だけれども、疲れてしまったんだ。
私自身がブログのあるべき姿を信じられない中で、それでも書くことにはストレスがあった。
書きたいのに、書くことがストレスになる。
もう意味がわからない。

 

shortnoteは気持ちが楽だ。
まず、タイトル記入欄に「オプション」と記載されているのが楽だ。
私はタイトル付けというものが苦手なのだ。
それは昔から本当に苦手で、高校の部活動での作品にも題を付けることができず、やっと付けたものにも先輩からOBからダメ出されたものだった。
たしかビートたけしが言っていたと思うんだけど、どんな映画かを一言で言ってくれと言われても、一言で言えるようなことだったら映画なんて作らないよ、と。
ブログエントリーのタイトルは、その内容を的確に示すものであるべきだろうが、
適切なタイトルというものを付けることが可能であれば、それ以後の文章はすべて蛇足になるのではないか。
だけれど私が文章を書きたいとき、その多くは明確な内容を伝えたいのではなく、大事なのは「蛇足」のほうなのだ。
だから私がタイトルを付けるとき、その目指すべき方向性がわからず、しかし何かを付けなければならず、いや、絶対に付けなければいけないというわけでもないところがまた余計に悩ましい。
それがshortnoteでははなから「オプション」なのだ。
付けたい人だけがタイトルを付ければいい。
付けなくても何ら問題ない、どころかそれがデフォルトなのだ。

 

なんでタイトルのことをこんなに長々と書いているのかよくわからないけど、ブログのことだ。
これは別に卒業エントリーではない。
もうブログを書かないというのではない。
shortnoteに書くことが増えて、はてなブログに書くことは減るよというだけのこと。
減るといっても以前のように、月に1〜2回くらいは更新するんじゃないかと思う。
しないかもしれない。
暇な職場に転職すればもっと書くようになるかもしれないし、宝くじが当たれば毎日更新するようになるかもしれない。
宝くじが当たって、毎日ブログを更新する生活がしたい。

 

*1:金銭の授受があったのか無償譲渡なのかは知らない

*2:ネタバレAmazonレビュアーを擁護する

*3:私が書いたのではない

*4:実際には時間も体力も無い

鈴木さん強い

朝日新聞内サイトの公式アカウントのツイートが回ってきて、その記述が気になった。

 

 

ツイートでは、「認知症で行方不明になる人の数が、年々増えています。昨年は延べ1万6927人だったそうです。このうち、1週間以内に発見された人は、どれくらいいたでしょうか」とあり、リンク先の記事には、「所在確認までの期間は捜索願提出の「当日」が1万1905人、「2~7日」が4205人で、99・3%の人が1週間以内に発見されていた」とあり、圧倒的多数が1週間以内に見つかっている。

 

自ら問いかけ、自ら答える場合、普通はその「答え」に強い主張を込める。というか強調したいところにそうした修辞法を使用する。もちろん、疑問と回答があれば必ずそれが強い主張でなければならないというわけではないけれど、そうあることが一般的だし、多くの場合、読み手はそう捉える。
だけれど今回は、どう考えても99.3%という数字が最も主張したい箇所だとは思えず、それでもやもやしたんだ。

 

 

 

もやもやして、何度も読み返した。
それでようやく気付いたんだけど、このおっさん、強いな。

 

有料記事*1の部分にはなるんだけど、認知症の人と家族の会代表理事の鈴木さんの話が出てくる。曰く、

認知症の人が自由に外出できる社会になりつつあることの裏返しと考えて欲しい」

 

「警察や消防、市民の協力で大半の人が元気な姿で家族の元に戻れている。認知症への理解が進んだことが影響していると思う」

 

認知症の人が街中にいるのが当たり前の時代になった。私たち一人ひとりが一緒に暮らしていくという意識を持てるよう、時間をかけてさらに対応策を講じる必要がある。認知症の人が道に迷っても必ず帰宅できる社会を目指すべきだ」

 

字面だけ追っているとすごく当たり前のことを言っているだけのようでもあるんだけれど、これは強い。

認知症の行方不明者が昨年は延べ16,900人となり、毎年過去最多を更新しているという記事を読むと、そりゃあ大変だ、なんとか減らせないものかと私なんかは思ってしまうんだけれど、彼はそうではない。
認知症の人が自由に出歩けるようになったから行方不明が増えているのだと言い、きっとそれは必ずしも悲観することではないし、むしろ望ましい部分もあるということだろう。
認知症の人が自由に出歩くことで行方不明になってしまったら、迷惑のかかる人もいるだろうし、社会への負担にもなるだろうが、しかし認知症の人をどうこうするのではなく、変わるべきは社会、我々のほうなのだ。

なるほど、言われてみればたしにそれは正論で、認知症の人を拘束すべきでないことくらいは私にもわかるが、だからといってそれで社会が被る負担は並々なものではない。
そうした社会が正しいことは理解できるのだけれど、私はまだ「認知症の人が道に迷っても必ず帰宅できる社会を目指すべきだ」とは言えないでいる。

*1:無料会員でも読める

何食べるか考えるの面倒くさい

無駄なエネルギーを消費しているような気がする。

たしかスティーブ・ジョブズだった思うんだけど、何着るか考えるの無駄だから同じ服めっちゃ買い揃えて毎日同じ服着てるとか言ってた。
私の場合は、服はどうせ持っているものの組み合わせにしかならないし、それも気候に合ったもので、洗濯あがっているものに限られるので、結果として選択肢は少なく、そう思い悩むこともない。

しかし、食事はそうではない。
家に無ければ、買うことができるのだ。
最悪、外で食べるという可能性もあるので、選択肢は無限にあると言っていい。
とはいえ、寿司が食べたいと思っても、久兵衛や次郎に行けるわけではない。
ヤオコーで見切り品のカツオやイワシを買ってくるのがせいぜいだろう。

そのギャップだ。
選択肢は無限に有りながら、その実選べるものは限られる。不可能ではないが、非現実的なのだ。2000万が貯まらないのではなく、給料日まで生活費が残らないのだ。やりがいなんてなくても月給30万が欲しいのである。
つまりだ。食べたいものを考えるとき、様々な可能性が浮かぶものの、その多くは実現困難なために却下される。そのたびに小さな失望に襲われる。少しずつ、フラストレーションが溜まっていくのである。

思えばカレーだけを食べ続けていたときは楽だった。
そこに選択肢はカレーか、それ以外かの二択しかなかった。カレー以外は、ほぼ間違いなくラーメンだ。
しかし今、この時期のカレーは危険だ。
一日放置しようものならあっという間にカビが生える。
我が家に強大な冷凍庫でもあれば話は違ってくるんだろうが、そんな持ち合わせもない。
なので考えなければならない。
選ばなければならない。
悩みながら、苦しみながら、生きていかなければならない。
傷つけながら、傷つきながら、それでも生きていかなければならない。
どうして。

よく知らない魚。気持ち悪い

結論から言うと、醤油が強すぎた。

主だった味付けはめんつゆだけで、まあたしかに味が濃いといえば多少濃くはあったんだけど、味が濃いというよりも、醤油が強いという印象。エノキが吸い過ぎた予感。

 

f:id:hungchang:20190611140108j:image

 

すべて具材を入れてから、めんつゆを適当にかけて、フタをして数分煮た。

魚はブツ切りにして、多めの油で両面じっくりと焼いている。塩コショウとニンニク粉をかけていたような気がする。

はじめて扱う魚だったので、どの程度熱を加えるべきかもわからず不安があった。

小骨はどんなかとか、身離れもわからなかったから、とりあえずブツ切りにしてみるかという発想。

とにかく安かったのだ。

 

f:id:hungchang:20190611141140j:image

企業の社会的責任とは

カネカの件、最初にみたときに思ったのは、なんで懲罰人事であることが確定事項として話が進んでいるんだろうということだった。違うことが確定しているわけでもないし、他の様々な時事と比べて重大な問題とも思えなかったので、特に言及することもなかった。
私には特に重大な問題とは思えなかったけれど、ネットの暇人たちにはそうではなかったようで、カネカの話題はとどまることなく、燃やされ続けていく。私にはそれが不思議だった。
徳力氏の記事を読んで少しだけわかった。法的責任は問われない対応だったけれども、社会的責任を追及されてしまっている、と。
そして、そのブックマークコメントを読んでわかってしまった。これは社会様がお怒りなんだと。

 

CSR、つまりは企業の社会的責任という概念がある。企業は、その財産権は株主にあるかもしれないが、顧客や取引先、従業員や社会全体に対しても密に関わるものであり、責任ある態度を示さなければならないという。それ自体はまったくもって正しいだろう。
だからといって、正しいことがすべてではない。
ネットの暇人に正義なんて与えてはいけなかったんだ。

 

だいたいからして、CSRは奉仕活動ではない。それは、世のため人のための活動ではなく、情けは人のためならずである。社会にステークホルダーが満ちているから行うものだ。
じゃあお前らはどれだけステークをホルドしてるのかと。社会に属しているというだけだろう。それなのに何だ。自分は当事者だぞ、社会様だぞと言わんばかりだ。
300円の牛丼を一杯食べて、それだけで一流ホテルのような応対を求めて騒ぐクレーマーがいたら、頭がおかしいと思うだろう。それだけのサービスを求めるなら、相応の対価を支払うべきだ。客ならなんでも許されるわけではない。

 

当事者でないと口を出してはいけないというわけではない。いったいどんな立場からものを言ってるんだということであり、企業はそこまで社会に奉仕する必要はないということだ。
もちろん多くの企業に、もっと社会を慮って振る舞ってほしいところではあるが、それをネットの暇人どもがやれ自分は当事者だ被害者だと騒ぎ立てるのが醜悪だ。企業の社会的責任というのは、そうではないのだ。
社会という曖昧な存在をステークホルダーとみなしてしまったCSRの概念が、人類には早すぎたのかもしれない。彼らに正義なんて与えるべきではなかったんだ。

女の子の匂いという謎

デオコというボディソープがある。

ロート製薬が発売している若年層向けの商品だ。

それを使うことで自分から女の子の匂いがするようになるだとか言い出す者が現れた*1

曰く、脳がバグり、背徳感がハンパないという。

俺は限界だと思った。

まず女の子の匂いなるフレーズからして気持ち悪い。

しかもそれがだ。

化学的に、後付けされた匂いによって、何故脳がバグるのか。

何故背徳感が生まれるのか。

背徳感とはその痛々しさのことなのか。

もしかして脳ははじめからバグっていたのではないか。

まったく理解できない。

 

なので、デオコを買ってみた。

 

ボトルからは、開封するまでもなく、その匂いが漏れてくる。

ごく化学的な匂いで、これが女の子の匂いなんだろうか。

たしかにこうした匂いをさせた若い子はいる。

でもそれは、体の匂いというよりも、シャンプーやボディソープの匂いだと感じるのが普通だろう。

女の子匂いというよりは、女の子が使いがちなボディーソープの匂い。

それにしても匂いが強い。

普段は香水も付けず、極力香料も抑えた商品を使っている私には、耐えかねる匂いの強さだ。

初日は下半身を洗うにとどめたが*2、それでも手から漂う匂いで半ば嫌気がさした。

脳がバグるでも背徳感に打ちのめされるでもなく、自分から自分のものでない匂いがすることがつらかった*3

もう一日下半身のみに使った翌日、いくらか慣れてきたのもあり、ついに上半身もデオコで洗った。

すると案の定デオコの甘い匂いが体から漂う。

時間が経てば体からの匂いには慣れてくるが、手を顔に近づけると、思い出したように匂ってくる。

やはり私にはこれが女の子の匂いという認識は持てない。

ただただ自分の体から甘ったるい匂いが漂い不快だというだけたった。

600円を費やしても得られるものはほとんどなかった。