朝日新聞内サイトの公式アカウントのツイートが回ってきて、その記述が気になった。
認知症で行方不明になる人の数が、年々増えています。昨年は延べ1万6927人だったそうです。このうち、1週間以内に発見された人は、どれくらいいたでしょうか。https://t.co/CA2OQk0bEI
— 朝日新聞医療サイト「アピタル」 (@asahi_apital) June 20, 2019
ツイートでは、「認知症で行方不明になる人の数が、年々増えています。昨年は延べ1万6927人だったそうです。このうち、1週間以内に発見された人は、どれくらいいたでしょうか」とあり、リンク先の記事には、「所在確認までの期間は捜索願提出の「当日」が1万1905人、「2~7日」が4205人で、99・3%の人が1週間以内に発見されていた」とあり、圧倒的多数が1週間以内に見つかっている。
自ら問いかけ、自ら答える場合、普通はその「答え」に強い主張を込める。というか強調したいところにそうした修辞法を使用する。もちろん、疑問と回答があれば必ずそれが強い主張でなければならないというわけではないけれど、そうあることが一般的だし、多くの場合、読み手はそう捉える。
だけれど今回は、どう考えても99.3%という数字が最も主張したい箇所だとは思えず、それでもやもやしたんだ。
これ、疑問投げかけられたら気になるじゃん。見るじゃん。結果「99・3%の人が1週間以内に発見されていた」なわけでさ、これ見ると、なんだ、ほとんどみんなすぐに見つかってんのか、そりゃあ良かった、ってなるじゃん。それでいいんだろうか。
— 近田(うし) (@chikada06) June 20, 2019
まあ実際、記事内では認知症の人と家族の会代表理事の人の言葉で「認知症の人が自由に外出できる社会になりつつあることの裏返しと考えて欲しい」ってのも出てくるから、もしかすると「そりゃあ良かった」でいいのかもしれないけど、ううむ。
— 近田(うし) (@chikada06) June 20, 2019
もやもやして、何度も読み返した。
それでようやく気付いたんだけど、このおっさん、強いな。
有料記事*1の部分にはなるんだけど、認知症の人と家族の会代表理事の鈴木さんの話が出てくる。曰く、
「認知症の人が自由に外出できる社会になりつつあることの裏返しと考えて欲しい」
「警察や消防、市民の協力で大半の人が元気な姿で家族の元に戻れている。認知症への理解が進んだことが影響していると思う」
「認知症の人が街中にいるのが当たり前の時代になった。私たち一人ひとりが一緒に暮らしていくという意識を持てるよう、時間をかけてさらに対応策を講じる必要がある。認知症の人が道に迷っても必ず帰宅できる社会を目指すべきだ」
字面だけ追っているとすごく当たり前のことを言っているだけのようでもあるんだけれど、これは強い。
認知症の行方不明者が昨年は延べ16,900人となり、毎年過去最多を更新しているという記事を読むと、そりゃあ大変だ、なんとか減らせないものかと私なんかは思ってしまうんだけれど、彼はそうではない。
認知症の人が自由に出歩けるようになったから行方不明が増えているのだと言い、きっとそれは必ずしも悲観することではないし、むしろ望ましい部分もあるということだろう。
認知症の人が自由に出歩くことで行方不明になってしまったら、迷惑のかかる人もいるだろうし、社会への負担にもなるだろうが、しかし認知症の人をどうこうするのではなく、変わるべきは社会、我々のほうなのだ。
なるほど、言われてみればたしにそれは正論で、認知症の人を拘束すべきでないことくらいは私にもわかるが、だからといってそれで社会が被る負担は並々なものではない。
そうした社会が正しいことは理解できるのだけれど、私はまだ「認知症の人が道に迷っても必ず帰宅できる社会を目指すべきだ」とは言えないでいる。
*1:無料会員でも読める