子供の泣き声を許せる人がどうして舌打ちが許容できないのか理解できなかった

泣き子とか堀江とかの話はいいんだ。気になったのは「舌打ち」の一点。

 

 

 

はてなブックマーク - 「舌打ちくらい、いいんじゃない?」 - いつか電池がきれるまで

 「舌打ち」っていうのは、「自分からは一方的に不快感を表明したいけれど、深いコミュニケーションは拒否する」というアピールです。
 「舌打ちくらい」って考えている人もいるみたいだけれども、「舌打ち」って、やっても、何のメリットもない行為ですよ。
 「相手を不快にしたくてしかたがない」のなら別だけど、そうであるなら、「舌打ちくらいで気を悪くするな」というのは、筋違いになるでしょう。

 

まあ、たしかにそうかもしれないけど、と思った。だからといって耐えられないほどの不快感じゃないだろう。舌打ちなんて1秒もしないで止まるじゃないか、って。

 

 

でも、そうじゃない。ブコメをみると、舌打ちひとつに怒り心頭の人が少なからずいる。

 

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ブコメの舌打ちぐらいのことには寛容でありたいというのに同意だけれども、私は舌打ちが聞こえるとすごく不安になるから苦手だ(怒鳴り声が怖い、というのと似た感じ)。
舌打ちに対して抵抗のない人がこれほどいるのがむしろ驚き。私の感覚では、人前で舌打ちをするような人間は、他人なら先ず付き合わないし、身内なら絶対許さない。
本文がマトモで安心した。舌打ちは明確に「攻撃ノ意思アリ」なので喧嘩売ってると解釈されても仕方ない。僕は不当な攻撃には反撃する。そもそも全うな人間は舌打ちなどしない。己の下等な生き方を喧伝するのみだよ。

 

どうやら私が舌打ちを騒音と思うのとはまったく違う受け止め方をしているようだ。彼らにとって舌打ちはただの音ではないらしい。罵詈雑言に近いものとして受け止めているみたいだ。どうして彼らはたかが舌打ちにそこまで強い意味を見出すのか、私にはまったく理解できない。何なのその被害妄想は?馬鹿なの?とさえ思った。

 

 

 

ふと、これと同じようなすれ違いは前にもあったような気がしてきた。

何だっただろう、と記憶を絞りだして、そうだリードだ!と思い出した。

 

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この時は逆の立場だ。子供を紐でつなぐことに私が意味付けをして憤っていて、反対にまったく無頓着な人たちの存在に驚かされたものだ。

それに気付くと楽になった。

私がリードに象徴性を強く見出していたように、彼らは舌打ちに同じような感情を抱いているに過ぎない。たまたま私のまわりには舌打ちで不満を表象する人がいなかったので、私は舌打ちに強い嫌悪感を抱く必要がなかっただけなんだ。