嘘とか本当とかどっちでもいい

読んだ。

 

個人ブログの嘘はどこまで許されるのかなって話 - ネットの海の渚にて

 

どう思うかと聞かれたら、私の見解としては「どうでもよくね?」というのが正直なところ。

 

 

これは自省logよりむしろ下の記事を読んで感じたことで、そっちの話をメインに書いていく次第。

 

役所広司、震災記録映画の“やらせ”に怒り「二度と上映されるべきものではありません」 - シネマトゥデイ

 

ドキュメンタリーだと思ってナレーションを引き受けたのに、内容にやらせがあってふざけるなと役所広司が怒っているという話。プロの表現者がこうした発言をすることがすごく不思議だった。えっ、なに夢見てんの?って。表現ってそういうものじゃないんじゃないの?って思った。

 

  

たとえば私は写真を撮る人間なので、写真に写るもの=真実の世界 ではないことを知っている。写真は唯一の正解に向けて、スキルの上手い下手があるのではなく、あんなものいくらでも撮り方があるわけで、だからこそ写真を撮ることは楽しい。それは音楽の演奏と同じようなもの。確かに決められた楽譜はあるけど、音がどう奏でられるかは、演奏者によって全然違うし、同じ演奏者であってもまったく同じ演奏なんてもう二度とすることはできない。写真でも同じことで、被写体がどんなものかは決まっていても、それをどう撮るかは撮影者のセンスによって変わってくる。それが映像ともなればさらに表現の幅が広がるのは当然で、より強い意図を織り込ませることができるようになる。優れた表現力を持つ作者なら、目に見える現実とは違った世界をいくらでも創造することができる。結果としてその完成物はフィクションと何も変わりはない。

 

優れた表現による現実離れした作品と、拙い細工によって創作された作品。両者がまったく異なるという言い分もわからないではない。

でもその違いって、本来は箱を開けてみるまでわからないもので、開けるまで観測者には知り得ない情報だ。そして私たちは普段その箱を開ける権限を持っていない。だからフタを開ける前から中の猫が生きてるとか、いや死んでいるはずだとかいうことに何か意味があるとは思えない。無理やりフタをこじ開けては、おい猫が死んでいるじゃないかと責め立てるのは、ノンフィクションを創作することよりもよっぽど醜悪じゃないかとさえ思えてしまう。いやいや、どっちだっていいじゃない。創作の含まれない表現だとしたって、どうせそれは普段目に見える現実とは違った別の現実なんだから。

 

これは「情報を疑う」という姿勢ともちょっと違うと思っている。真偽がわからないから疑ってかかる、姿勢を保留しているというわけではない。繰り返しになるけど、基本姿勢は「どっちでもいい」だ。

私の好きな小説に浅田次郎蒼穹の昴』がある。浅田次郎の現代物はイイ話過ぎてどうも読んいてむず痒くなってくるけど、時代物はちょうど私の好みに合う。これは史実を元にして作られた物語で、はてなでのIDのhungchangも『蒼穹の昴』内の李鴻章から拝借しているわけだけど、では現実の李鴻章が小説の李鴻章と同じような人物かというと多分ちょっと違うだろう。違っててもいいと思ってる。私が興味を持っているのは小説の登場人物である李鴻章だからだ。歴史上の李鴻章にはそれほど興味が無い。まさに小説に描かれている通りの人柄だったとしても、まったく反対の人物像であったとしても、どっちでもいい。それは小説の評価にも、小説に描かれる李鴻章の評価にも関係しない。

時代小説がフィクションであるということは多くの人と共通して持つことができる認識じゃないかと思う。私にとってはルポやドキュメンタリーも、もちろんブログでも変わらない。一杯のかけそばが実話でも創作でも、マックで話している女子高生が実在しようがしまいが、そんなことはどっちでもいい。その物語で感動できるか、含蓄があるか、笑うことができるか、それだけが問題だと思う。