又吉直樹の「火花」を読み終えた。読んでいる途中から私はこの小説が好きだなあと思っていた。別に描いているテーマが好きだとか、キャラクターが好きだとかいうわけではない。何が好きなのか、自分でもよくわからない。漠然と雰囲気が好きだ。
「火花」はどんな話なのか。主人公である徳永が、面白い芸人を目指す物語だ。物語は花火大会での営業から始まる。徳永は花火大会の余興として漫才をするが、客は誰もそれを聞いていない。滑りさえもしない。次に舞台に上がった神谷さんたちは、そんな客を罵倒し始める。漫才とも呼べない神谷さんの漫才に、徳永は感銘を受ける。その晩は一緒に酒を飲み交わし、徳永は神谷さんを師匠と慕うようになる。物語は、徳永から見た神谷さんの言動を中心に描かれていく。中途半端な俗物な自分と、孤高の天才である神谷さんという構図で物語は描かれていく。神谷さんは笑いに対して貪欲で、いつも新しいことに挑戦しており、それだけのアイデアも持っている。しかし、それはなかなか人に理解されない。神谷さんも、世間に理解されるために自分を曲げたりは決してしない。
小説を、あるいは映画を、これは○○の物語です、と言えるようならはじめから創作なんてしない、と言う作家や監督がたまにいる。「火花」はまさに「○○です」とは言いにくい物語だ。
「火花」のクライマックスにおける問いが「差別的な笑いの是非」もっと言うと「自分の追求した最高の笑いが意図せず差別的な意味を持っていたらどうするか」であり、その問いにお笑い芸人である又吉直樹が明確な答えを出しているのだ。浜田さんはじめ絶笑メンバーは又吉からケツバットを見舞われるべき
— ユンダ (@y00black) 2018年1月1日
私が「火花」を読むきっかけとなったツイートだ。だけど、物語の解釈は、私の場合はちょっと違った。ツイートでの描写はおそらくは1年ぶりに姿を現した神谷さんが胸にシリコンを入れていたことに対してのものだと思う。神谷さんはそれを面白いと思ってやった。だけども徳永は、そんなのちっとも笑えないという。たしかに神谷さんには何の悪気もない。だけども世の中には性のあり方に敏感な人たちもたくさんいる。神谷さんのことを知らない人にとっては、神谷さんのしていることはそうした性に敏感な人たちを馬鹿にして笑いをとろうとしている風に見えてしまう。そんなの全然笑えないですよという。
ではこの小説の主題は、笑いを目的としてもマイノリティには配慮しようというものなのか。たぶんそうじゃないよね。そうだとしたらこの小説は、それまで描いてきた神谷さんという人物をすべて否定する、否定されるために神谷さんは描かれてきた存在となってしまう。でもそうじゃないんだ。だって、今まで神谷さんの笑いをずっと崇めてきた徳永が、はじめてそれにNOを突きつけたシーンなのだから。それはこれまでの型から外れた言動であり、型から外れるというのは神谷さんの笑いにおけるモットーなのだから。徳永が神谷さんの笑いを否定するということが、逆に神谷さんの笑いのスタイルを肯定することになってしまい、それ故この小説が神谷さんを否定する物語たりえない。神谷さんを否定する物語であるなら、それを実現するようなかたちで神谷さんの笑いのモットーを設定していないはずだ。
もちろんクライマックスでの主人公の台詞であり、物語中でその主張は誰にも否定されない、おそらくそれは作者の持論であり、それを伝えたかったんだろうことは否定できない。でも、マイノリティへの配慮を怠る笑いを糾弾する趣旨の小説ではないよね。そんな押し付けがましさが無いのがまた火花の魅力だと思うんだ。
冒頭で、この小説の雰囲気が好きだと書いた。物語を通してずっと薄暗い小汚い情景が浮かんでくるんだけど、その中でチラホラとはさまれる二人の会話の中の小ネタが良い味を出している。そのおかげで暗くなりすぎずに読んでいくことができている。その小汚い情景、多くは吉祥寺であり、また上石神井であり、あるいは三宿なんだけど、私の馴染みある土地ばかりが出てきて光景を思い浮かべやすいのもまた良い。池尻から二子玉までが歩く距離じゃねえなあというのは馴染みがなくてもある程度都内に住んでいれば想像がつくだろうと思う。だけど吉祥寺から上石神井までの道のりというのはそうではない。路線が違うのでなかなか想像が付きにくいはずだ。立野町という単語が出てきたときには心のなかでツッコミを入れていたが、まさかそこからまだ歩いて上石神井駅にまで着くとは思わなかった。吉祥寺のハーモニカ横丁といって、一体どれだけの人にその雰囲気が伝わるんだろう。吉祥寺駅北口には、南北に伸びるメインストリートであるサンロードと、東西に伸びてパルコや東急百貨店に通じるダイヤ街の2つの大きなアーケード通りがあるが、ダイヤ街と鉄道の間に位置するのがハーモニカ横丁であり、路地はとても狭くて薄汚い。そこに胡散臭い飲み屋やらオシャンティーなセレクトショップやらが立ち並ぶ謎空間なんだけど、そうした説明を一切することなく物語中はハーモニカ横丁でなどと綴られる。たしかにあまり説明的な描写はこの小説の中になじまない。あるいはハーモニカ横丁が勘違いされたとしても大した問題もないという判断かもしてない。兎に角、コンテクストを共有できている表現というのは気持ちのいいものだ。南口をあてもなく歩いていると、人波にもまれるままに井の頭公園に着いてしまったり、井の頭公園でお兄さんがジャンベを叩いていたり、情景がありありと浮かぶ。私が雰囲気が好きだというのはたぶん、説明的すぎないでリズムの良い簡潔な文章の中でしっかりとシーンを思い浮かべることができるということを含んでいるんだと思う。過度に説明的な文章は読んでいて疲れるし、景色の想像できない文章は眠くなる。
でもそれだけじゃない。やはり二人の掛け合いが好きだ。ときに真面目に笑いを語り、ときに真面目に悪ふざけをし、神谷さんが何を言っているのか理解できないときもあるけど、それを徳永は冷静に俯瞰していたり、あるいは必死に冗談で返そうとしたり、読んでいてたまに唸らせられることもあれば、クスッと笑ってしまうこともある。このいかにも芥川賞っぽい雰囲気。00年代のミニシアター系映画っぽくもある。そんな雰囲気がたまらなく好きだ。