この記事を読みながら思ったことだけど、本文の内容はほとんど関係ない。
子供のころに松本人志の、たぶん『遺書』か何かを読んで、TVで面白いことは全部ダウンタウンがやってしまう、後に出てくる芸人は皆ダウンタウンかもっと古い芸の二番煎じしかできなくなる、みたいなことが書いてあって、なるほどそういうこともあるかもしれないと思った。19世紀末の米でも同じように、もう重要な発明は出尽くしたので今後特許制度は要らなくなるという主張を特許庁長官がしていたという。( watto のコメント / はてなブックマーク)
ところで、この19世紀の特許庁長官(って誰だよ)のエピソードを、私は何故か勝手に1世紀遡ってベンジャミン・フランクリンとして記憶してしまっていて、いくらフランクリンで検索しても当然そんな話は出てこなくてちょっと焦った。たった半年前の記憶がこんなにもいい加減なものかと絶望した。と同時に、Evernoteの便利さに涙した。ちなみにベンジャミン・フランクリンは、政治家であると同時に避雷針などの発明者でもあり、しかし技術の伝播の妨げになるとして彼は特許を取得することなく、社会に還元したらしい。(ベンジャミン・フランクリン - Wikipedia) へぇ。あと、たしかにEvernote便利だけど、本当は泣いてません。ほんの出来心で私は嘘をついてしまいました。
閑話休題。
これまでのコンテンツ消費は共時的であることが当然であったように思う。テレビや新聞・雑誌、映画もラジオだって、それは"今"消費することに意味がった。1年前のテレビや雑誌を視ることは容易ではなかったし、そうしたいと考えることもほとんどなかった。CD・レコードや書籍は少し違って、その意思があれば遡って観賞することは難しくない。だけどやっぱり遡りたいという需要はそう多くなく、消費されるのはもっぱら最新のタイトルばかりだった。
それが今少しだけ変わりつつあるのかもしれない。
何年か前のテレビ番組も、インターネットで検索すれば見られるものが少なくない。新聞記事も遡って見られるものが増えてきている。できなかったことができるようになったことで、今までは諦められていた潜在的な需要が育ってきているのではないか。古い情報に言及した情報も数多く残り、古い情報を覗きたい需要自体も以前より高まっているのではないか。何の根拠もなく想像だけで書いているけど大丈夫かしら。気にせず続けて書いちゃうけど、これまで使い捨てられてきたコンテンツだけど、実はそこにはまだまだ消費されきっていないで需要があり、それを消費することが技術的に可能になった。ならば消費することこそがジャスティスだ。
しかし、そこには著作権がある。
著作権は著作権法によって保護される製作者の正当な権利だ。そこには法律があるのだから守るべきであることは疑いの余地がない。ただここでは法律、というかそのシステムのあり方を考えたいので、現行法を守ることが正義だという主張は聞き入れない。
著作権は当然に守られるべき権利だ。それはコンテンツを作り出したことの報酬である。しかしひとつのコンテンツはすぐに消費されなくなる。過ぎ去った過去のコンテンツは権利者にまったく利益を生み出さないものだった。だからそうした古いコンテンツに価値を見出し、再び市場に出すことができたなら、そのキュレーターに著作権者以上の利益を与えることも、倫理的にそう間違ったことではないかもしれない。現在の著作権法の認める権利が強すぎるのではないかという疑念。
一方で、新作だ。コンテンポラリーにあるコンテンツを同等に扱うことはできないだろう。そうしたコンテンツはまだこれから多くの利益を生み出すはずのものであり、製作者でない者がその利益を奪うことは正当ではない。つまり、生み出されたときに最大だった著作権が、月日を経るにつれて徐々にその価値は償却されるべきなのではないか。
現在でもCD/DVDのレンタルは販売開始後数週の間はできなくなっている。また著作権の保護期間が過ぎた後でも、著作者人格権などの隣接権は残り続ける。その意味ではまったく新しい発想ではない。狭義の著作権についてももう少し柔軟に逓減した方がいいのではないかというだけだ。たとえば下図の場合はライセンサーの請求できる権利が小さくなることで再商品化のコストが抑えられて、ようやく市場に出回ることが可能になるかもしれない。権利を縮小することで得られる便益はより大きくなる可能性がある。
二点だけ気を付けたいのは、よくフリーライダーの口にする「宣伝」理論では、「宣伝」されるだけでは権利者には何の利益にもならないが、ここでは請求できる権利が縮小こそすれどもしっかりと支払いがなされる前提に立っているということ。またそれ故、現行で権料を支払う気のないフリーライダー問題には、何のソリューションにもなっていないということである。
だんだん何の話だったかわからなくなってしまったので要点をまとめると、
- 社会にコンテンツのストックが増えた
- 非共時的なコンテンツを消費するのに十分な技術が普及した
- 非共時的なコンテンツを消費するのに十分な制度が整っていない
- 著作権が償却されていけば古いコンテンツはもっと消費しやすいのではないか
といったところかしら。