久しぶりに同級生と会って言葉に出来ない感情を抱く

昔から国語は得意じゃなかったし、特に作文は苦手だった。人とのコミュニケーションも下手糞だ。その自覚は持っている。だけどこちらは曲がりなりにも4年制大学を卒業して文学士の学位を受けている身だ。学生の頃は人並みに本だって読んでいた。もう少しくらい上手く文章を書けてもいいんじゃないか。

文章が、という段階じゃないかもしれない。言葉が出てこない。この感情をどんな日本語で表現したらいいのかまったくわからない。劣等感とか敗北感という言葉が近いのかもしれないけど、もっとモヤモヤした何か。30年間も日本語だけを使い続けているのにそれがわからない。

 

なんでそんな面倒くさい感情を抱くようになったかといえば、友人の家に遊びに行ったからだ。数年ぶりに会う高校の同級生の家だ。仲の良かった友人たちと同窓会のようなノリで集まった。家庭料理を振る舞われ、持ち寄った酒と肴をつまみながら、昔話や近況報告をしていた。

家主夫妻の家には小さい子供が2人いる。大人はたくさんいたので、誰かが代わる代わる子供をあやしていた。家主妻は、そうやって面倒見ててくれるとすごく助かる、と料理を作りながら言う。夕食作るから毎日来てよ、と。でも、私の目にはとても「助かっている」ようには見えなかった。私たちがくだらない話をしている間中、彼女はずっとキッチンに立って、料理を作ったり、食器を洗ったりし続けていたからだ。キッチンを離れるときは子供のおむつを替えたり、食事を食べさせたりするときだけだった。ゆっくり椅子に座って一緒に話す時間はほとんどなかった。

それでも彼女は楽しかったと言う。こちらではアスナが可愛いとか、直葉とかいうモブは何だったのかとか、いやリーファも可愛いけどやっぱりアスナさんには敵わないとか、そんな呑気な話をしている一方で、彼女は終始働き続けていたのに、それでも楽しいと言う。それどころか、子供の面倒を見ててもらえて楽だったとさえ言う。それが衝撃だった。普段はどれだけ過酷な労働を強いられているのか。あるいは彼女はいつからか聖人君子になっていたのか。

夫婦関係は良好に見えた。妻が席を外しているときはごく自然に旦那が食器を洗い始めた。子供が椅子に座っている間は、私たちと話しながらでも、子供が落ちないよう常に目をやり手をかけていた。決してすべてが妻に押し付けられている様子ではない。むしろ理想的な夫婦関係にさえ見えた。それでも子供を持つことはそんなに大変なのか。誰よりも背が低く、か細い彼女が、そのときは誰よりも大きく逞しく見えた。すごく遠くに行ってしまったように思えた。

一方の私は、いったい何をやっているんだろうと思えて、冒頭のモヤモヤに戻る。

ただこう書くと、自分自身への感情だけに見えるけどそればかりじゃない。彼女に超進化を強いる社会環境がおぞましいく思えるし、そんな進化ができない人間はどうやって子供を育てるんだろうという絶望感がある。そんな挑戦したくないし、すべきでもないように思える。じゃあどうするべきなのかという答えなんてもちろん持ち合わせてなくて、とりあえず書き出してはみたけど、なんとも後味の悪い文章になってしまった。