文字化しない文化

本論とはだいぶズレるんだけど、でも書きたいことがあって、だけどブックマークコメントでは書ききれなかったのでここに書いていくというだけ。

 

「人権」問題のグローバル化はすでに終わっている

 

 文化によって違った倫理観を持つというのは当たり前の話。元記事のブコメでは死刑制度が挙げられていたけど、死刑反対論者の私には到底受け入れられない例。しかしこれといって他に例が浮かばないのが悔しいところ。

じゃあ欧米とは違った日本の倫理観とは何かって話になる。私が学生だった10年ほど前は、今とは違って江戸しぐさとか大政翼賛とか言ったところで気狂いの所業としか見られなかったので、どんな価値観かと言われても誰も明確に答えられなかった。日本的○○なんてだいたいがグローバルスタンダードへの反抗に過ぎないんだから仕方ない話なのかもしれない。でもそれじゃあ明確な定義付け、発想の言語化を徹底する欧米の規範には太刀打ちできない。

ただ、日本の文化を言語化できないのではなく、言語化しないことが日本の文化体系のひとつだという見方もできる。ポケモンは言葉で会話ができないのにサトシとピカチューが心の通じた友達であることが米文化には衝撃だった、みたいな話を聞いたことがある。まあタイニートゥーンとかでも喋らないキャラクターいるから多分でまかせだろうけど。ポケモンの真偽はいいとしても、日本では言葉にしないところはどこかあって、それが良い所ではアニメーションやポップカルチャーに活かされていたり、阿吽の呼吸だったりおもてなしだったりに繋がるんだと思う。他方では不文律に縛られたり、無言の圧力や陰湿ないじめに繋がったりもしているんじゃないかしら。そうした負の側面にフォーカスすると非人道的な文化に見えるのも十分うなずける。そうじゃなくても欧米の人権意識と比べると圧倒的に遅れているんだけど。

人権・人道というフィールドではただでさえ圧倒的に遅れているのにもかかわらず、さらにそこには文化の違いがあり、でも本来は文化保全というキラーカードが出せるところなのに欧米のルールに則った文化の言語化ができないのでカードを発動することもできない。ここで何を間違ったか愛国心だ家族扶助だと言い出しちゃうんだから、もう大人しくコーカソイドに浄化された方がいいんじゃないかという気さえしてくる恐ろしさ。新渡戸先生の再臨が待たれる。