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10年ぶりに眼鏡を買った話する?

10年のあいだ大事にひとつの眼鏡を使い続けてきたんだとかいうわけじゃなくて、そもそも眼鏡なんて必要なかったんだよね。眼鏡が必要なほど目悪くないんだ。じゃあなんで眼鏡を買ったのかというと、若気の至りってやつだ。
眼鏡キャラ。元気な天然キャラが主人公なら、体育会系のイケメンと、蘊蓄を語りたがる眼鏡が、その両脇に置かれがちだ。その眼鏡のほう。無鉄砲な主人公の言動に対して正論を吐いては眼鏡クイッてやるやつ。あれがやりたかったんだ。できるだけイラッとする感じにしたかったから、緑の太縁のオシャンティなやつを買った。我ながらイラッとする。「こういうの誰が買うんだろうと思っていたけど、近田さんみたいな人が買うんですね」って後輩に言われた。たぶん本来はもっとオシャンティな人が買うものなんじゃないかとは思う。「オシャンティ」ってなんとなく嘲笑的なニュアンスが込められているイメージだったけど、検索してみてもそんな記述はどこにも見られずちょっと驚いた。
視力云々以前に眼鏡が欲しいから眼鏡を買ったのではあるが、せっかく安くない買い物をするのだからと視力を測って矯正のあるレンズを付けた。いくらか視力が低下している自覚はあった。PCを買って使い始めた頃だったので、その影響もあっただろう。しかし、測ってみると意外にも近視はほとんどなかった。そのかわりに乱視があった。乱視が何であるか、それは未だによく理解できていない。丸いはずの眼球が歪んでいるからどうこうとかいう話だったような気がする。知ったところで視力が回復するわけでも、何か対策を取ることさえもできないんだからどうでもいい。とにかく、近視ではない何かであることは確からしい。その乱視用のレンズを入れてもらった。
矯正の入った眼鏡をかけると、たしかによく見える。なるほど、離れたところの文字も見えやすい。だけど、視力に不便があったわけでもないし、はっきり見えるようになったところで世界が変わったりはしない。比べるとたしかによく見えるのだけど、比べなければ気付かない程度の違いしかない。眼鏡を装着していることの違和感のほうが大きかった。眼鏡を外しているほうが楽だった。眼鏡をかけるのは、遠くの文字を読む予定のあるときと、眼鏡クイッをやりたいときだけになった。
ゼミ合宿のようなイベントがあった。正確にはゼミでもなんでもない。教授と仲の良い人たちが集まって旅行に行っただけだ。学園祭期間のあいだ教授が暇だったので企画された旅行だ。なのでまともにサークル活動を行っている人は除外された企画だった。そんな日陰者ばかりが10人くらい集まって奈良に行った。そこで事件は起こる。紛失したのだ。おそらくはクイッした眼鏡を外してどこかに置き、そのまま放置してしまったんだろう。どこに置いてきたのか、まったく記憶になかった。心当たりもないんだから探すこともできず、かといって、訪れたところを手当たり次第に電話で問い合わせるほどの愛着を眼鏡に抱けてもいなかった。いくらか残念ではあるが、眼鏡は諦めることとした。眼鏡の購入から一ヶ月足らずでの出来事だった。
あれ以来、だいたい10年ぶりくらいに眼鏡を買った。

知らなくても選択しなければならない問題

なんかはてなブログからメールが来て、1年前のブログを振り返ろうとか言ってるわけ。あーはいはい、とか思いながらも挙げられているのが知らないと検索できない問題 - 殴る壁で、ああそうだなと思うところがあったので書き出してみる。

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というのも、だ。最近はてなでは大学中退した人が話題じゃないですか。妙に叩かれているじゃないですか。叩かれているというより、馬鹿にされてる、かな。どっちでもいいけど。
俺だっていろいろ言いたくはなる。自分の意志で選んだ大学はダメだったのに、今度の「事業」だっていったい何が違うんだとか。在学中に起業して退学した実業家は多いけど、退学するのはだいたい事業が軌道に乗ってからだろとか。でも俺だってそんなこと言える立場じゃないわけだ。俺だって楽して好きなことだけして生きていきたい。別にレールを上を走って成功したわけでもない。くだらないと思いながらささやかな抵抗を繰り返してきた。知識もないのにやりたい分野に飛び込んだり、経験もないのにスタートアップに参加したり、その結果がこのザマなわけだ。
いや、俺の話はいいんだ。そうじゃなくてさ。結果論として間違った選択ってのはどうしても出てくるんだ。そして往々にしてそういう選択は、傍目から見ても間違っている。*1 だけど当の本人だけがそれをわからない。理解するだけの知識も経験もないんだから。

 

学生時代に人脈作っとけとかクレカ作っとけとか、そういう話はよく出回っているんだけど、こういう健康リスクの話はあまり多くない。あと、フリーランスは営業や雑務が必要になるから、好きなことだけしたい人は会社勤めのほうがいいよみたいなことをモフモフ社長がよく言ってる印象だったけど、検索するとそんなに言ってなかった。

 

こういう情報って働いている人にはある程度想像のつくところではあるんだけど、そうした選択を迫られるときって概してまだ若い。高校生や大学生だったり、働きはじめて間もないころであることが多い。*2 どんな仕事が、働き方があるのか、どんなメリット・デメリットがあるのか、自分にはどんな適性があるのか、ほとんど何もわからない。しかも質が悪いことに、本人は「わかっている」と思いがちだ。そりゃあ今までに怪我も病気もしたことがないと、健康リスクなんて言われても、健康管理には気をつけようくらいにしか思えない。でも選ばないといけない。マジ無理ゲー。そりゃあ若者も保守化するわ。
だから間違った選択を我々は嘲笑うべきではないと思うんだ。目指すべきは、レールを外れても戻ることができるようにすることだったり、勤務先への依存が強すぎるクレジットスコアの評価形式を改善したり、働けなくなったときのためのセーフティーネット整備を進めたり、だ。間違った選択を間違いでなくしていく。そういうことこそ必要だと思うんだ。

*1:極端に期待値が低いくらいの意味。必ずしも失敗が約束されているというわけではない。

*2:逆に齢をとってからだと選択肢が狭まる問題もある。

カレー屋

インド人っぽい人のやってるカレー屋って、店構えとかメニューとかどこの店もすごくよく似てるのに、味は全然違うから不思議。先週は湯島かどこかに行ったので、たまたま目にとまったカレー屋に入ったんだけど、その店はハズレだった。何がハズレなのかというのを上手く言語化することができないんだけど、あんまり美味しくなかった。美味しくないことはないんだけど、1000円近く払って食べるほどの味ではないよなあという印象。世の中1000円も払えばだいたいもっと美味しいものが食べられるじゃないか。

南アジア系のカレー屋は、2カレー+ナン(またはライス)+サラダで900数十円という店が多い。1カレーだと800円台。ナンがおかわり自由だったり、飲み物が付いたり、デザートが付いたり、そのあたりは店によって微妙に違う。家賃水準によって違うのかもしれない。郊外店のほうがサービスがいい印象がある。価格設定はほとんど変わらない。どうしてこうも似ているのかしら。悪徳ブローカーがどうこうみたいな話もあるけど、それにしても扱う地域が広過ぎはしないか。
最近の持論としては、ネパール国旗を掲げている店は美味しいことが多いというものがある。それを裏付けるにはまだサンプルが少なすぎるところではあるが。ネパール国旗を掲げる美味しいカレー屋のサンプルのひとつが、家の近所にある。やはり1000円弱で2カレーセットが食べられる。ナンはおかわり自由で、飲み物も付く。先日仕事が早く終わったので、数ヶ月ぶりにそのカレー屋に食べに寄った。この店はだいたいいつ行っても店内はすいている。その日は先客が一人もいなかった。たしかキーマカレーとほうれん草のカレーを食べたような気がするけど、まあそんなことはどうでもいい。相変わらず美味しかった。ナンの残りが減ってくると、店員からおかわりするかを聞いてくるのはありがたい。あとは、もう少しくらい店員が日本語を話せたらいいんだけど。
その日は私が店を出るまで新しい客が入ってくることもなく、終始一人きりだった。いくらなんでも客入りが少なすぎる。駅から少し離れたところにあり、こんなところで繁盛しているほうが不思議な立地ではあるが、それにしてもこれでは採算も立たないだろうに。これはもしかすると本当に悪質なあれにそそのかされたパターンなのかもしれない。だけど美味しいから潰れないでほしい。
 

見てきた感想

はい。

chikada.hatenablog.com

というわけで早速見てきました。やはり既報で褒められているところは褒められるべきだったし、けなされているところはけなされるべきだった。近年の日本映画を代表する作品かと問われれば首肯しかねるが、最高のB級映画だったとは言っていいと思う。私は好きだ。すごく面白かった。ネタバレになっちゃうけど、ラストでゴジラが親指を立てて溶解炉に沈んでいくシーンは涙無しには見られなかった。
 
ほんとストーリーは糞だった。増田でも既出だけど、一切どんでん返しのないストーリー展開ははすがにどうかと思った。2週間というゴジラの活動停止の長さもあまりにご都合主義が過ぎるように思える。血液を凝固させることで体温の冷却を抑えて活動を停止に追い込む作戦だったはずだけど、凝固させることで温度上昇でなく凍結したのがよくわからなかった。ゴジラの生体リズムまで判明しているのなら、核兵器を利用するよりも、もう1ターン待って矢口プランを確実に成功させるよう各国を説得すべきだし、それは不可能ではなかったんじゃないだろうか。
だけど、その糞ストーリーであっても一切退屈させない緻密な演出プランは素晴らしかった。それは官僚体制や暢気な大衆への皮肉をユーモラスに描いた描写であり、それを象徴的に見せるための過剰なキャラクター設定であり、それを引き立てる大袈裟な演技だ。そうした過剰な演出こそがこの映画の見せ場であって、それゆえ『シンゴジラ』は大作ではなく、B級だと言える。よほどのファンでもなければ、別に映画館で見なければならないような作品ではない。家で寝転がってDVDを見るのでも十分楽しめる。むしろああだこうだ言いながら見るほうが楽しめるのではないか。それができないから、みんなこぞってネットにレビューを書き込んでいるんじゃないかしら。
大作映画だと勘違いするからゴジラの風貌やCGにも違和感が出てくるが、はじめからB級映画なんだと思えば特に気になることもない。しかしどうしてB級映画にこんなに予算が集まったのかという疑問だけはいつまでも残る。

あともはや映画の感想じゃないけど、シンゴジラage「邦画」sageの人はもっと邦画をちゃんと見てほしいなと思う。たぶんTVCMをしているような映画しか見ていないんだと思うんだ。でも私の好きな、そしておそらくは彼らも好きな、邦画はそんな広告予算を持っていない。まずはゲオか、近所のレンタルビデオ屋に向かってほしい。そこで邦画旧作ランキングを見る。知らないタイトルだけど上位にいる作品があったら名作である可能性が高い。それが好きなジャンルであったなら是非一度見てみてほしい。でもその時には、過度に監督で選ばないでもらいたい。たとえば私は行定監督作品が好きなのだが、彼の予算の付いたメジャー作品は概して面白くない。企業もそれなりの思惑があって映画に出資しているのであって、そうした作品では監督の意図に沿った形で映画を作りにくくなってしまっているからではないかと思っている。だから、もし面白くないメジャー作品で監督を評価してしまっているのだとしたらもったいない。もっといい作品がいっぱいある。『シンゴジラ』が面白かったのだって、現代日本社会というコンテキストを共有していたからだと思うんだ。コンテキストが共有できていないと、あのユーモアは伝わらない。私が邦画を好きなのは、海外作品では難しいそうした機微を楽しむことができるからだ。

『シンゴジラ』感想

anond.hatelabo.jp

 

実は私もまだ映画を見てないんだけど、いろんな感想を見るにつれて、だんだんと気になってきている。公開当初はネタバレを忌避するレビューばかりだったので、サスペンス要素の強い作品なのかと思った。だけど、情報が増えるにつれ、どうやらそうではないらしいことがわかってきた。そんなに奇抜なストーリー展開ではないし、その出来を高く評価する声もあまり見ない。では何が良かったのか。それは、官僚制社会の風刺だったり、311の引喩だったり、過去作品のオマージュだったり、そうしたオタク心をくすぐる要素が上手く花開いたんだと思われる。なるほど、これはたしかに気になるが、しかし私に刺さる作品でもなさそうであり、わざわざ劇場で見る必要はないなと悟った。実際シンゴジラを絶讃するのはガルパンおじさんばかりじゃないか。ガルパンも劇場版は未鑑賞だが、テレビ版を見る限りではさほど高評価すべき作品とも思えず、彼らとは趣味が合わないと言わざるを得ない。
しかし、それでも気になる。気になるのは、zeromoon0さんが賞賛していることであり、そして何よりneji-koさんまでもが賛美しているからだ。「シン・ゴジラ」を観に行きました - カリントボンボン この記事で私の中のシンゴジラ像も修正を迫られた。
 

私は「好きなもの」を描いた作品が好きだ。たとえば私の好きな映画に『アイデン&ティティ』という作品があるが、そこでは主人公の敬愛するボブディランが、彼の苦悩に対する道しるべとして登場する。彼が困ったときにはディランが現れ、ハーモニカの音を通して彼に語りかける。ディランは必ずしも正解を明かしたりはしないが、彼の悩みに真摯に向き合い、疑問に答え、導こうとする。逆に言えば、彼の目指す道は常にディランであり、ディランとはそれほどまでに大きい存在なのである。その映画を見て感動し、私もディランを聴いてみたが、そちらは私の好みには合わなかった。合わなかったのに、『アヒルと鴨のコインロッカー』を見てはまたディランを漁り、再度撃沈した。
好きなものを描いたものが好きだというのは、私が積極的に『シンゴジラ』のレビューを読んでいる理由でもある。かつてテレビが世に出されたとき、世界の映像がテレビ放送に流されるのでもう旅行に行く必要がなくなると宣伝された。50年後インターネットの出現においても近い文句が叫ばれた。しかし、そうはならなかった。世界各地の情報が飛び交い、容易に集めることが可能となっても、旅行の意義は少しも失われていない。実際に自分の目で実物を見ることと、他の誰かの目を通して、編集を通して見ることはまったく違うことだからだ。それは同時に、編集を通して見ることが、必ずしも実物を見ることの劣化コピーではないことをも意味する。第三者の解釈を経ることで、一人では気付けなかった見方があり、発見があり、感動がある。ときに誇張され、美化され、虚実の入り混じった描写が、その原風景を想像することが、私を楽しませる。
 
『シンゴジラ』の話題に戻ると、ゴジラのSFXについて、立派だ迫力があるという声と、ショボい低予算らしいという相反する声が挙がっているのは気になるところであり、これは近い将来確かめないといけないとは思っている。おそらくは主に海外映画を見る人にはショボく感じられ、普段映画を見なかったり、逆に低予算映画を見漁っている人には立派に見えたのではないかと想像できる。どんなにショボかったとしても、『アイデン&ティティ』のディランほどではあるまい。あるいは、予算を抑えながら迫力を持たせる何らかの工夫された演出がなされたか。もしそうだとしたら、それはかなり気になる。
 

中華鍋が錆びたので、ラーメンを作った話

底が丸くなっていないので中華鍋と呼ぶことが本当に正しいのかよくわからないけど、面倒くさいので便宜的に中華鍋と呼ぶ。
そいつが最近錆びついてしまっているんだ。麺を茹でるのにしか使っておらず、油も通していなかったんだから仕方ない。よし、それじゃあ油を使おう、ということでまず鶏皮から油を絞り出した。適当に刻んだ鶏皮を中華鍋で炒める。もっと放置ゲーなのかと思ったけど、意外と鍋にくっつくので箸で炒め続ける。本当はもっとカリカリになるまで出し尽くすんだろうが、面倒くさくなったので鶏皮を取り出して、今度は細切りにした長ネギを入れる。こちらはすぐにしんなりとし、やがて色が変わってきたので、味覇とめんつゆとチューブのにんにくを投入。グツグツしてきたら水で薄めて伸ばす。これをラーメンのスープとする。
両手鍋にお湯を沸かす。コンロが一口しかないので同時並行ができない。沸くまでの間に鶏ハムに限りなく近い何かを切る。最近は鶏に塩を揉み込んだりそれを洗い流したりするのが面倒なので、保存バッグでめんつゆに漬け込み、バッグのまま加熱しているので、鶏ハムによく似てしかし少し違う何かになっている。沸いたら麺を茹でる。細麺なので1分で茹で上がると書いてあるが、再沸騰するのに1分じゃすまない。試しに1分くらいで試食してみるが、やっぱりまだっぽい。もう少し大きい鍋がほしいところ。茹で上がった麺をざるにあけ、先ほどのスープを温めなおす。丼に麺を盛り、鶏を乗せ、スープを注いで完成。

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味は間違いないんですよ。味覇とめんつゆっていうもう完成された味に、鶏とネギの旨みが加えられているんだから、美味くないわけがないんですよ。ただ、コンロが一口しかなかったり、丼が小さかったり、それらを見越した調理ができなかったり、もっと具体的に言えば、丼の底で麺がくっついて固まってたのが失敗だった。

 

あと関係ないけど、自炊における最近の気付き。

  • 麺は余熱で茹でれば十分は嘘。とても残念な茹で上がりになった
  • キャベツスライサーはあまり力を入れずに軽く刃に当てれば比較的薄くスライスできる
  • ダイソーの糞でかいザルがあるとキャベツスライスが1000倍捗る
  • ミネラルウォーター買うよりも水道水で麦茶作ったほうが低コストで満足感高い

ミニマルなあれ

近くに用事があったので、涼みがてら竹岡雄二展を見てきた。最近は本さえろくに読んでおらず文化から遠ざかっていたけれど、これで憲法に定められた国民の義務である健康で文化的な最低限度の生活をこの夏もどうにかこなすことができた。どうでもいいけど、「埼玉県立近代美術館」を「MoMAS」って略すのはちょっとどうかと思った。

 

youtu.be

 

結論から言えば、最初から最後まで意味がわからなかった。どうやら聞くところによると、台座なのにその上に何も作品が飾られていないというシュールさが笑いどころであり、作品の飾られることのないこれは本当に台座と呼んでいいんだろうかという不条理ギャグが売りらしい。それはちょっとレベル高すぎるだろ……。一緒になったおばちゃんグループなんかは、台座や空っぽのボックスには目もくれずに、作品の構想を描いたスケッチや、美術館備え付けの展示ケースに並んだ竹岡氏所蔵の(作ではない)古い工芸品ばかり見ていたじゃないか。てかスケッチ見たんだったら主たる展示作品がどれなのか気付けよ。
だいたいからして、作品を見せるための台座じゃなくね? なんで台座がオレンジとか金とかなの? 目立ちすぎだろ。お前が主役じゃねえんだよ。壁に吊るされた台座は、台座自体が目線の高さにあって、その上に作品が置かれるとしたら高すぎて見えない。床に並べられた7つの台座は、おそらく人間大の彫像が配置されることが想像できるが、だとすると台座同士が近すぎて大きな像の展覧には窮屈だ。台座それ自体が美術作品だというのならわかる。でもそうじゃないじゃないか。"作品がない"空間を見せること、そこから何か感じ取ることを意図してのものだったはず。"作品がない"ことの違和感を示すためには、"作品がない"こと以外は完璧な状態が築かれているべきじゃないんだろうか。デュシャンの「泉」が美しい工芸品ではなく市販品であったことに意義があるように、台座だって作品があってはじめて成り立つものでないといけないはず。でも展示の意図としてはそうじゃないみたいでよくわからないんだ。

 

www.pref.spec.ed.jp