解脱したい2025夏

ブラック企業で底辺労働者とともに肉体労働に勤しんでいると湧き上がる感情の大半が怒りを占めていたけれど、転職を経て人間的な感情を取り戻しつつある気がしている。それは必ずしも心が穏やかになったというわけではない。人間だもの。

フィクションに触れるようになったのが大きい気がする。本を読まなくなっていたのはもちろん、年々とアニメも見なくなっていた。音楽すらろくに聞いてなかった。それが最近は映画を見たり、小説を読んだりしている。それが情緒に訴えかけてくる。休みが増え、勤務中にもゆとりがあるので、その間も情緒が引きずられる。

迷い苦しむのは暇があるからだ、もっと働けとパスカルか誰かが言っていたのを思い出す。労働し、社会に(あるいは神に)貢献し、それで迷いが晴れるのなら実に合理的だ。でも、働きたくないんだなあ。

働くということ。あるいは社会に合わせて振る舞うということが私には向いていないんだと思う。それでも尖った何かがあれば良かったんだけど、私には何も無いから、薄給に甘んじて最低限の労働、最低限の社会参加を以て生きていくしかない。

薄給に甘んじさえすれば、最低限の労働、最低限の社会参加を以て生きていくことができるということに気付けたのは良かったと思う。ようやく気付けたのだ。自分はキャリアを積めばもっといい仕事に就けるんじゃないかとどこか信じていたところがあった。でも社会性を持たない私には無理なことだったんだ。私程度の社会性でも築けるキャリアというのもきっとどこかにはあるんだろうけど、Try&Errorを繰り返していけるほど人生は長くないし、そんな体力も気力も備わってはいない。結果的に悪くはないのだ。最良ではないけど、十分に良い。はず。

社会を諦めて、かわりにゆとりを、エンターテイメントを、物語鑑賞を得られた。でもそこで描かれるのは、努力であり、競争であり、友情であり、恋愛であり、性であり、家族であり、成長であり、成功であり、私の諦めたもので、捨ててきたものばかりで、それらがとても輝くして、眩しくて、羨ましくなる。どうして何のために捨ててきたんだっけ?ってなる。どこかまだ諦めきれていないんだろう。解脱したい。