視覚、聴覚、そして身体性

以前よりも動画を見る時間が増えて、すると動画を見ているのに手持ち無沙汰に思えることが出てくる。コンテンツが退屈だというわけでなくても、手元が退屈してしまっている。今思えば、私はテキストを読むときにもその箇所をドラックしながら読んでいるので、そうした身体性を伴わないコンテンツ消費が苦手なのかもしれない。それで動画を見ながらスマホを手に取ってゲームを始めたりなんかする。でも主には動画を見ているので、大したゲームなんてできない。ただゲームという名の作業をこなすに過ぎない。それでも、簡単な作業をこなしているだけであっても動画コンテンツに向けられる意識は削がれ、その内容がまったく頭に残らないこともしばしばだ。元も子もない。

 

どうやら視覚と聴覚への刺激、それに身体性の3つがそろっていないと物足りなさを感じてしまうようなのだ。「身体性」よりも「触覚」と書いたほうが統一性が得られるけれども、なんとなく「触覚」よりも「身体性」のほうが正しい気がする。皮膚から得られる刺激のことを言ってるのではない。身体を動かすことがより重要なんだと思える。

たとえば散歩をするとき、そこに快感を覚えるのは、足の裏から地面を踏みしめる感触が得られるからではなく、自分の体を動かしているからであることは疑う必要もないだろう。散歩は身体を動かしながら、移りゆく街並みを眺めることができ、さらにはポッドキャストなんて聴きながら歩けると、そのエンターテイメント性は非常に高まる。

 

十分に満足するためには視覚と聴覚、そして身体性を同時に伴う必要があるけれども、一方でそれらを同時に処理できるほどのメモリーが脳には用意されていない。同時に刺激を欲しながら、十分に処理できるのは、そのうちひとつか、せいぜい頑張ってふたつだろう。他は無意識に委ねられる程度のものでなければならない。

たとえば散歩をするときに、この左足の踵が地面に付いたタイミングで右足の膝を曲げてなどと考えることはまずない。視覚情報も、自動車などの危険が迫っていないかを確認する程度の処理しか要しない。意識の大半を音声コンテンツに向けることができる。手持ち無沙汰になることなく、ひとつのコンテンツに没頭できるという点で散歩は優れており、つまり私は「散歩」と言いながら、その実は歩くことではなく音声コンテンツを楽しんでいたのである。

同様にして、動画コンテンツとエアロバイクもまた相性が良いと感じる部分がある。しかしエアロバイクの要する身体性は少し強すぎて、いくらか動画コンテンツへの集中が削がれる、あるいは漕ぐ足が止まってしまうこともある。我が家では、エアロバイクの正面にモニター画面を設置することができず、KindleFireで見ることがせいぜいであるという問題もある。
こうして考えると、人と会って喋るというのはなかなかにエンターテイメント性が高いんだと思わせられる。対面して話すことで、視覚と聴覚に訴えかけるのはもちろん、多くの場合、ただ互いに向かい合って座って話すのではなく、街を歩いたり、あるいは料理を食べたりと、何かしら身体性を伴うことが多いだろう。