週末に見た何らかの増田について書こうと思っていたけど何だったのかがもはや思い出せない水曜日。最近はwebを眺めていても、パッションを燃やして書きたいという内容が無くて、それはたぶん良い傾向なんだろうと思っている。私の場合、その衝動は怒りから湧いてくることが多いからだ。変化は、年末からRSSリーダーを再び使いはじめるようになって、その影響だろうと思われる。つまりは、ネットの話題をいちいち追いかけ続けるのは不毛だという話。
以前は数時間ごとに見ていたはてブの"お気に入り"を見ることが少なくなった。追いかけるのが面倒になったからだ。その分、村はてブfeedlyに入れて見ている。"お気に入り"は1アカウントごとの動向が表れるのでかなり新鮮な情報がキャッチできるが、村はてブは違う。ある程度の人数の動きが定まってからの掲載になるので必ずしも鮮度はよくないし、私はそれをさらにRSSリーダーを通して1日に1~2回しか見ないので、話題には乗り遅れることが多い。
同じ話題を見るにしても、今まさに盛り上がっている最中で読むのと、ひと通り燃え上がって鎮火に向かっている中で読むのとでは、得られる印象が変わる。そうした祭りのあとの風景を一歩下がったところから眺めると、なんでこいつらこんなことで熱くなっているんだろうと思えてくる。馬鹿なんじゃないかと。
ネットで毎日のように盛り上がっている数々の話題は、概して大した情報価値もない。毎日のワイドショーがゴシップばかりを何時間も追いかけ続けているのと同じだ。はてなはインターネットおじさんのためのワイドショーだ。それは必ずしも悪い意味ではない。価値の無い情報を娯楽に変える。結構なことだ。エンターテイメントとはそういうものだ。アイドルグループが解散しようが、どこ出身の力士が優勝しようが私の人生には一切の影響がない。国家経済に数億円の影響はあるのかもしれないけど、そんなもの週末が晴れるか雨が降るか程度の違いだ。プロブロガーが有料化することでより面白くなるだとか、ツイッタラーがラーメンを食べることが困難な状況になるだとかなんて、当然それ以下の情報価値しかない。そんな糞どうでもいい情報でも、みんなでやんややんややっているとそれなりに楽しいわけだ。ニコニコ動画でコメントが付くことによって、糞動画が面白くなるのと同じような現象。
楽しいということは、それ自体に価値がある。楽しいことに情報価値を求める必要はない。でも、楽しいことを味わうために、わざわざ苦行を積む必要もない。ここで苦行というのは、たとえば見ているだけでイライラするような炎上記事のことだ。何年も何年も異口同音に同じことを繰り返し主張し続けるネット論客たちに、やはり同じように正義を行うこともそれなりに楽しいし、そうした正義をみんなで共有できることは強い快感をもたらすかもしれない。でも、だからといってどうせ読まなくてもわかっているような炎上記事を読んでイライラする必要はないんじゃないか。読めば苛立つことがわかっているなら、読まない方が効用は高いんじゃないか。
結果としてはいい感じである。話題に出遅れることによって、連帯感に近い何かから得られる楽しさは減り、記事そのものを楽しめるようになった。連帯感に近い何かから得られる楽しさは、ストレスを生む炎上記事でなく、箸にも棒にもかからない増田からでも得ればいい。