さあさえあ

お前らそんなにハゲ子氏のこと好きだったのかよという思いがあり、いやしかしそうじゃないんだろうなと思い直す。「ハゲ子氏への思い」というより、「死への思い」が違うんだろう。
人が死ぬということの哀しみを未だにうまく理解できていない。もう二度と会えなくなるんだということくらいはわかっている。でも、どうせ会わないじゃないか、という思いがある。どうせ会わない。これはハゲ子氏がnet上の人格だからという意味ではない。リアルな人間であっても変わらない。同級生が死んだ10年前もそうだった。みんな悲しんでいるんだけれど、私にはそれがよくわからなかった。だっさあすてどうせならいいもう会わないじゃないかって。実際に他の同級生たちとも年たま単位で会っていない。その内の何人かとは去年連絡を取ったという程度だ。どこかで生きているけれど直接会うことも連絡を取ることもなく暮らしているのと、死んでしまったのと、何が違うのかがわからないんだ。
ハゲ子氏に関して言うならば、私は彼のブログ読者ではなく、その他SNSもフォローしていないんだけれど、たまに事が起こったときに彼ほどわかりやすく、漏れなく、面白く事をまとめることのできる人はいないので、そうした人材を失った悲しみはある。私の敬愛する人は少なくないが、そうした有用な人材は極稀で、ある意味では「好きな人」よりも代替性が乏しい。そうした悲しさは小さくないが、しかしそれはどこまでいってもツールを失った悲しさであり、かけがえのない命に対するそれではない、と思うんだ。思うんだけど、「かけがえのない命に対するそれ」を理解できていないのでよくわからない。本当は人を失った悲しさは、貴重なツールを失った悲しさが拡大したものに過ぎず、「かけがえのない命に対するそれ」なんてものはそもそも存在しないのかもしれない、なんてことを考えている。