民主主義に対する重大な挑戦

なんかこのすげえ面倒くさい構図の話好き。朝一番に眠い目をこすりながらSmartNewsで読んだときには意味がわからないでスルーしてた。

TBS「民主主義に重大な挑戦」 スポンサー圧力示唆に - 共同通信 47NEWS



まず、TBSが報道番組内で安保法改正に批判的な内容を放送する。
それに対して、「放送法遵守を求める視聴者の会」が、放送内容が不公正だと怒る。改めないならスポンサーに訴えるぞと主張する。
すると今度はTBSが、スポンサーに訴えるなんて酷い、そんなやり方は民主主義に反するんじゃないか、と発表したのが今回のニュース。わかりにくい。

で、TBSスポンサーに弱すぎだろとか、放送法遵守を求めるとか言いながら安保推進したいだけだろとか、どうでもいいツッコミどころはたくさんあるんだけど、主だった論点は大きく2つで、ひとつは"放送法は両論を対等に扱う義務を課しているのか"、もうひとつは"スポンサーの圧力は「民主主義に対する挑戦」なのか"だろう。


第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

放送法

 

条文を読む限りでは、「政治的に公平であること」が放送事業者に義務付けられているように見える。賛否を均等に扱っていないテレビ局が法に反しているようにも読めてしまう。
しかし一般的な法解釈において放送法4条は、1~3条に引き続き、政府からの干渉を受けずに自律的判断で放送を行うことを明記したものであるとされる。実際に政府もかつてはそう解釈していたという。*1 ここで「かつては」ということは、つまり今は違うということだ。ではどちらが法解釈として正しいのかというと、それは司法が決めることである。
2005年11月、放送法4条をめぐった最高裁判決がある。

最高裁第1小法廷は,放送法表現の自由の下で放送の自律性を保障し,健全な発達を目指すものであるとし,番組への他からの関与を排除することで表現の自由を確保することが放送法の理念であるとした。そして,第4条の規定は法の全体的な枠組みと趣旨をふまえて解釈する必要があり,他からの関与を排除して表現の自由を保障する放送法の理念からして,訂正放送規定は放送局が自律的に訂正放送を行うことを義務づけたものであり,被害者が裁判で訂正放送を求める権利を認めてはいないと判断した

「訂正放送は放送局の自律的な義務」 最高裁が初の判断 | 調査・研究結果 - 放送研究と調査(月報)メディアフォーカス | NHK放送文化研究所

 

放送事業者に放送内容を強制することはできない。放送法4条は、憲法21条放送法1~3条に反しないように解釈する必要がある。これが司法判断だ。TBSも十分に「放送法遵守」していると考えられる。

(2016年4月9日追記)ブコメで指摘ある通り、2005年判決は当時の放送法4条に基づくもので、現在の9条に当たる部分のものでした。

 


で、もうひとつの"スポンサーの圧力は「民主主義に対する挑戦」なのか"という問題。
まずこの「民主主義に対する挑戦」って言い回しが巧み。言いたいことは「民主主義に反している」ということなんだろうけど、「反している」とは言わないで「挑戦」という言葉を使う。それは実際に民主主義に反してはいないからだろう。少なくともスポンサーの圧力を禁止する法は無い。これは法的な問題ではなく、倫理的な問題なのだ。
では何が「民主主義国家に対する挑戦」なのか。それは民主主義とは何かという問いと表裏になる。

デモクラシー(民主主義・民主制・民主政)とは、諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制だが、これらは歴史的に発展してきた概念であり、その時代や論者によって内容の異なる多義的な概念である

民主主義 - Wikipedia

 

民主主義は諸個人の意思の集合によって決められる何かである。それをどうやって決めるのかいうのはさておき、民主主義には個々の意思が必要であり、尊重されなければならない。これが大前提。個々の意思決定を権力で屈服させてはならない。
ここからがいくらかトリッキーになる。TBS側の主張に立てば、自社スタッフの意思に基づく言論を、「視聴者の会」がスポンサーという権力を用いて、屈服させようとしている、これは民主主義の理念を打ち壊すものだという理屈になるんだと思う。私たちには強大な権力と思えるテレビ局にとっても、スポンサーはさらに大きな権力なんだ。
さらに厄介なことには、ここで権力とされるのはスポンサーだけではないかもしれない。企業としてそう明言することはないだろうけど、「視聴者の会」も権力と見なされている可能性もある。「視聴者の会」は放送法に基づいた政治的に公平な報道を求めているようで、その実は政府批判を控えて政府の主張の通りの報道をしろと言っているのではないか。活動報告 | 視聴者の会を見る限りでは、安保法改正における報道に対して以外の主張はなく、安保推進の主張を報道することを求める団体のようにも見える。つまり、「視聴者の会」は政府と結託した権力側なのではないかという疑念だ。とはいえ形式的には市民団体としての体裁が整っている中で、それを基に反論を行うのはあまりに筋が悪い。
話を戻すと、権力による個人の意思決定の妨害があってはならない。たとえばファストフード店でアルバイトをしていると、事務所に署名用紙がおいてあるわけだ。何の署名かといえば、社保拡大に反対の署名だった。法改正によってアルバイトも社会保険の強制加入となり、企業と従業員がともに保険料を負担しなければならなくなることに反対しての署名活動だった。お前も署名しとけよと店長に言われ、ちゃんと書いたかとSVに問われるも何とか適当に誤魔化すわけだが、そうやって雇用者が署名を強制するようなことは許されざる行為だ。署名活動は自発的なものでないと、本来署名としての意味を成さない。直接請求でもなければ署名活動自体に法的根拠が無いので、おそらくはその強制にも違法性は無いだろうが、これは民主主義の理念に反するものだし、「民主主義に対する挑戦」と言ってもいいだろう。
企業が従業員に対するのと同様に、スポンサーが報道機関に対して強い力を持っているのなら、その力を行使して報道内容を変えさせることは「民主主義に対する挑戦」と言えるかもしれない。実際に原発事故の後は、東京電力電事連がスポンサーであるから事故の詳細が隠された報道が、あるいは原発運営に好意的な報道がされてきたのではないかとの疑惑が度々囁かれた。その真相はともかく、仮にスポンサーであることを武器に報道内容に干渉していたとしたら、それは多くの人に正義に反すると判断されるのではないだろうか。
一方で、仮に力ない我々がマスメディアに対抗しなければならないとしたら、持ち得る武器は不買運動だろうし、それはメディアそれ自体の不買よりも、スポンサー企業への不買のほうが効果的となる。そして今回「視聴者の会」が言っているのはまさにそうした戦い方だ。果たして我々はその戦法を否定してしまっても良いのだろうか。
きっと「民主主義」として望ましいかたちとしては、スポンサーはそうした脅迫的交渉に応じず、報道機関の自律性を守っていくことだろう。もしそうした企業が現れたら、批難するのではなく、賞賛し贔屓にしていきたい。

「視聴者の会」はサイトに会見の書き起こしらしきものがって、なかなかツッコミどころが多いので、気が向いたらまた書いてみたい。