ラーメンという名のスタジアム

勝負はあまりに一方的だった。いや、これは勝負ですらない。ただのリンチだ。一目見てそう思ったのは私だけではないだろう。丼の上に積もれたのは、14番ディッシャーですくったのではないかと思われるほどの量の刻みニンニクだった。どうしてこんな量のニンニクを盛る必要があるんだろう。コール無しでは一切入れられることのないニンニクが、たった4文字のコールでこの有り様だ。いったいどうしてこんなことになってしまったのか。対する魚粉は野菜の上辺が茶色く色付く程度に過ぎない。東京の交通インフラがどれだけ脆弱だといっても、この程度の積雪なら横須賀線でさえ通常運行を続けられるだろう。積高は1mmに満たない、どころかまばらに粉をかぶっているに過ぎない。全量を合わせても28番ディッシャーにも満たないのではないだろうか。たったこれだけの手勢で、あの凶悪なニンニクに挑もうというのか。

ニンニクの脅威。今さら語るまでもないだろう。多くのラーメン店でそれは卓上に並べられ、最近では客に自ら絞らせるスタイルも増えてきた。たった一片のニンニク。ペットボトルの蓋にも収まる程度のそれを絞るだけで、食べた者は翌日まで口臭が汚染されることになる。一騎当千に値するニンニクが、今夜はこの大勢で押し寄せる。ニンニクには触れないように麺をすすっても、その衝撃でニンニクの山は崩れ、スープに雪崩れ込む。もはやニンニクの勢いを止められるものは誰もいない。
その様子を魚粉は黙って眺めていることしかできなかった。うず高く積まれた野菜の上から、ただ静かに窺っている。もちろん魚粉だって決して弱い存在ではない。一説には鰹節は世界一かたい食べ物だと言われている。さかなへんに堅いと書いてカツオと読ませるところからも、その力強さが伝わってくる。
ところで、鰹節は出汁を取るのに使われる。出汁を取るのに使われた鰹節は、多くの場合そのまま捨てられてしまうだろう。それは鰹節の旨味が既に出汁の中に流れでたからであり、逆に言えば鰹節を食べるまでもなく出汁を出汁たらしめるほどの旨味を鰹節は秘めているということでもある。しかし、魚粉は必ずしも鰹節ではない。牛乳でなくミルクと記すときにはそれがたいてい牛乳でないように、サーモンと呼ばれるものが鮭でないように、野菜と頼んだのにモヤシしか盛られないように、魚粉は魚粉であって鰹節とは異なる何かだ。

鰹節とは似て非なる魚粉。彼らがその力を発揮したのは、野菜と呼ばれるモヤシをある程度食べ終え、その山が崩れてきたときだ。既に大きく崩れスープに流れ込んでいたニンニクに遅れ、ついに魚粉もスープに、そして麺に絡んでくる。麺をすするとまず口の中に香ばしさとともに磯の香りが広がり、そして遅れてニンニクの臭いが広がってくる。魚粉の優しい香りはあっという間にかき消され、やがて口の中はニンニクの荒々しさに飲み込まれる、はずだった。魚粉の香りに続いてたしかにニンニクの匂いが立ち込んでくる。しかし、だ。やってきたニンニクの匂いは、さっきまでのニンニクとは何かが違う。決してその匂いが消えたわけではないが、魚粉によりニンニクの刺々しさが和らいで、丸みのある匂いへと変わっている。間違いなくニンニクの匂いではあるのだが、さっきまでのニンニクとはまったく違う。原作ではジャイアンスネ夫と一緒にのび太をからかって馬鹿にしていたしずちゃんがアニメ化されると急にしおらしくなったように、あの猛々しいニンニクも魚粉と合わさることによってマイルドな、それでいてこの上なく食欲をそそる香りへと変化していた。柔よく剛を制す。ニンニク自身の莫大な力を利用して、小さな巨人が打ち勝った瞬間だった。