「メディア」という偶像

Copy__writingの件で青春基地とかいうサイトがヘンテコな謝罪文(?)を出して、火に油を注いでいる。ここぞとばかりに名を売るつもりなのかと勘ぐりたくもなってくる謎コメントだけど、だからといってそんなに責めなくてもとも思えてくる。ライターは何もわかっていない子供なんだから、編集部の大人がしっかりしてやらないとという主張が多々見られるけど、ABOUT – 青春基地を見る限りだとスタッフだって子供じゃん。メディアとしての責任が云々みたいに言われても、メディアってそんなに高尚なものなんだろうか。
 
メディアっていうのは原義的には「方法」「媒体」のことであり、カタカナ語として使われるときには「情報媒体」を指すことが多い。

メディア [1] 【media】

手段。方法。媒体。特に,新聞・テレビ・ラジオなどの情報媒体。

情報を保存する外部記憶装置の媒体。磁気ディスク・光ディスクなど。

情報を頒布する手段。コンピューターの分野では,② のメディアに加え,通信回線などが利用される。メディアとは - 広告用語 Weblio辞書

じゃあ情報媒体って何かといえば、イメージしやすいのは新聞やテレビなどのマスメディアである。ここで"マス"メディアというからにはもちろん"マス"じゃないメディアもあって、たとえばブログやSNSもそうだし、手紙や電話もメディアである。でもそうしたものにはあまり「メディアとしての責任」って求められない。まあ最近はブログに対しても責任を求める声が少なくないけど。

たぶん我々が「メディアとしての責任」を求めるのはマスメディアに対してじゃないかと思う。それはマスメディアが1対多数のメディアであり、一方通行のメディアだからだ。関係が圧倒的な非対称だから、情報に間違いや不公正があっても受け手がそれを指摘することは難しく、正しくない情報が急速に伝播してしまう。だからマスメディアには責任が求められる。特権は責務が伴う。
 
学生が運営するwebメディアは、そうした高貴な者の義務を負うべきなのか。もちろん理想論としては負うに越したことはない。また、まだ若いからといってすべての責任を免れることもできないだろう。だけど、高校生の監督責任を大学生が果たせなかったからって、いい歳したおっさんが寄ってたかって責めるのもなんか違うんじゃないかと思うんだ。
 
インターネットの発展によって、個人が情報を発信することが容易な社会になった。中にはマスメディアに近い情報発信力を持つ個人も出てきている。テレビ局や出版社も大衆からの声を拾い上げようとする動きを見せている。マスメディアの力は相対的に弱まり、マスとそうでないものの境界は曖昧なものになってきている。にもかかわらず、社会がメディアに求める責任は未だかつてなく大きくなっているように思える。思えるだけで本当に大きくなっているのか調べてはいない(というか定量化できるのかどうかもわからない)んだけど、だけどそれがすごく歪で気持ち悪い。もっと情報は奔放でも偏っていても、時には間違っていてもいいんじゃないか。結局のところ彼は行動が伴ってなかったけど、初期の上杉隆の訴えるメディアの形が私は好きだった。