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ネイティブアドとかステマだってかまわない

それが今のホットエントリーなのかどうか知らないけど、私の観測範囲では連日web広告の話題が盛り上がっている。メディア論は好きなジャンルなのでそこそこに記事も読んでいるんだけど、それがどうも面白くない。アドブロックの話題のときには、賛否があったのでまだ良かった。賛否があったといっても、広告への"否"が圧倒的ではあったんだけれど。
それが今度はステマの話題になると否!否!否! もう否しかない。そこまで否定しなくてもいいんじゃないかと思えてくる。
別に私だって広告が好きなわけではない。無いなら無いに越したことはない。でも広告があることによって私が被る不利益は、あることによって提供側が得る利益よりもはるかに小さい。私にとって広告のもたらす損失なんて無視していいくらいに小さいものだ。そんなことで得をする人がいるんだったらどんどん広告を打つべきだとさえ思う。

広告か記事なのかがわからないネイティブナントカとか名乗る所謂ステマだったら尚さら良いではないか。広告とは今までは不快なものだとされていたのが、記事と見分けのつかないほどにクオリティが上がっているのなら、悪いことは何もない。私たちは十分な価値ある情報を得て、広告主は商品の素晴らしさを周知されることができる、それによりメディアは収益を上げることができる。Win-Win-Winではないか。
広告のために書かれた記事なんて信用できないという人は、そもそも一般記事を信頼し過ぎているのではないか。金銭の授受こそなくても、テレビや雑誌のコンテンツの多くは取材先の協力の基に成り立っている。取材を受けてメディアに掲載されることが「宣伝」になるからだ。それはメディア企業から取材協力を持ち掛けることも多いが、逆に取材先となる企業から企画を持ち込むことも少なくない。そうして作られた記事は決して「ステマ」ではないし、「PR」表記がなされることもまずない。ではこうして作られた記事は果たして信頼するに足る記事なんだろうか。今度は一切取材先の協力を得ることなく、公開されたパンフレットやwebサイトの情報だけで、あるいは5分や10分触れてみた感想だけで作られた記事だったらどうだろう。本当に読む価値があるだろうか。その記事の価値は自分の目で見て、自分の頭で考えるしかない。取材先に、あるいはスポンサーにおべっか使ってばかりいるようなメディアの記事はもう読まなければいいだけだ。
もちろんこれは誇張にあふれた理想論だ。だけど広告のあるべき理想のかたちのひとつが、一般記事と見分けのつかない広告記事であることはたしかだろう。

そうした動きとは別の、忌まわしき広告があるのも事実だろう。詐欺まがいの広告もあるし、突然に音の出る広告は迷惑だ。「広告をスキップ」のボタンを押すと広告元のページに跳ぶ糞みたいな広告に出会うこともあるし、でもまあそれは糞みたいなサイトで糞みたいな作業をしていたんで仕方がないかなと思わなくもない。そこまででなくても酷い広告は少なくないし、それに苛立つのは十分に理解できる。だからといってそれは「中には酷い広告がある」ということであって、「広告とは酷いものだ」というのではない。解決手段としてブロック機能を活用するのは合理的だけど、広告を嫌う理由とするには不十分だろう。

あとついでに言うと、最近のweb広告論では、上に挙げた高品質化(を目指す)記事広告と、数打ちゃ当たる方式で大量生産される低品質広告の話題が目立つが、もうひとつ、決して品質は高くないが各ユーザーにマッチした広告を配信するAdSenseのような仕組みがあり、このAdSenseの登場時にはただのテキスト広告なのにクリック率が高く、またその結果として収益率が高いことで話題になったが、その後の進化が見られないように思う。広告自体はリッチになったかもしれないが、いつまでもマッチング精度は向上することなく、購買意欲を駆り立てるような情報が届かない。ノートや写真の共有サービスのスクラップ&ビルドを繰り返すよりも、おそらくは本業だろう広告配信精度の向上にもう少し臨んでもらいたいところ。