誰かの書いた文章の続きを書くようなもの

世間一般がお盆休みになって、そうなるとお客さんがみんな休みでまったく仕事がないにも関わらず、どういうわけか出勤しなければならないという理不尽と闘いながら、しかし鳴らない電話番と日報を上げるくらいしか仕事もないので、仕方なく事務所を掃除したり書類を整理したりリブログしたりブックマークしたりもしてるけど私は元気です。

そうして一日中PCの前にいるような忙しい勤務体制になってくると、ブログの下書きがたまっていることに気が付く。一度書き始めた文章がなんらかの都合で作業を中断せざるを得なくなると、翌日以降にその続きを書くことが億劫になってしまうからだ。大した意義があって書き始めたものでもなく、ただの衝動で書いていただけのものなので、そのまま一晩寝かせてしまうと昨日の熱量はもうどこにもなく、続きに手を付けることがなかなかできなくなる。だいたい昨日書いた文章なんて、もう私の文章ではない。それは録音した自分の声が、いつも聞いている自分の声とは違って聞こえて気持ち悪い現象にているかもしれない。たしかに私が書いた文章ではあるんだけど、途中まで誰かが書いていたような気持ち悪さ。今回はそんな気持ち悪さを抱きながら、書きかけの文章を最後の方まで書き連ねてみた。「最後の方」という曖昧さは、本当にこの文章がこれで終わるべきものなのか、今の私には判別できないのでぼやかして書いてみた。それは2週間前に書き始めたときの私しか知り得ないことなんだけど、それを知っている私はもういない。これが今の私にできる最大限の復元だ。

 

では2週間前の私がいったい何を書きたかったのかといえば、”批判”批判の話だ。なんだか最近同じようなコメントをいくつか書いているなあと思い、それなら折角だから文章にまとめようと思って書き始めた。ただ、最後に関連したいくつかのブックマーク等を挿入したが、実際に並べてみるとそれほどいくつも同じようなコメントなんて書いていなかった。

さて"批判"批判の話である。私は創作者ではなくて消費者なので、こうして文字を刻むときにも決してクリエイティブな文章を刻むことはできずに、なんらかのソースに対する言及がほとんどになる。ブックマークコメントなんてその最たるもので、web上にあるコンテンツに対して一言コメントを残すという、何者にもなれない我々のためにあるようなサービスである。何かに対して意見を表明するとき、その一部の意見は「批判」と呼ばれる。「批判」というのは決して否定的な意見だけを指す言葉ではないけど、否定的な意見が「批判」と呼ばれることが多いような気がする。

一国の最高指導者の言動を報じたニュースに対しても、個人の日記レベルのブログに対しても、インターネット上のコンテンツは等しく批判にさらされるリスクを負う。インターネットに公開する限り、誰でも簡単にそのコンテンツを見ることができ、また同時に誰でも簡単に見たものに対する意見を表明できるシステムが築かれているんだから当たり前のことだ。しかし、一個人の書いたものに対して批判することは良くないことだと主張する人がいる。だがこの主張はなかなか愉快で、”一個人の書いたものに対する批判”もまた一個人が書いたものであって、それを戒めることはまた”一個人の書いたものに対して批判すること”となってしまうというパラドックスを含んでいる。おそらくはこうした"批判"批判をする人にとって、不特定多数の批判者は個人ではなくある種の集団だという認識なんだろう。はてな村民や2ちゃんねらーがひとつの集団として見なされがちであることと同じことだ。しかし、実際には個々のユーザーがそれぞれ気ままな言動をとっているに過ぎず、統率された意見なんてものは存在しない。”一個人の書いたものに対する批判”をする主体は個人である。それを批判することは、”一個人の書いたものに対する批判”をすることに他ならない。結局”一個人の書いたものに対する批判”を妨げることに無理があるんだ。

 

ではやはり私たちは不特定多数の人から発せられる批判を受け入れなければならないのかといえば、そんなことはないだろう。批判者と対抗しようとするから心身が疲弊するのであって、そんなものはただ放っておけばいいだけだ。今では廃れてしまったがかつては「荒らしに反応する人も荒らし」といって、迷惑行為に対してはリアクションを取ることが迷惑行為者を助長することになるとして一切の言及をしないことが江戸の町人の間では常識であった。批判者に対しても似たことが言えるのではないか。もちろん批判は荒らしとは違って迷惑行為とは言い難いし、批判内容が正しいことも多いだろう。だからといって、批判を受ける度に言動を正しく改めていたら、私たちは正しい真人間になってしまう。正しいのならいいだろうと思うかもしれないが、私が言いたいのはそんなことは不可能だということだ。忍者の修行に似ている。麻の種を蒔き、生育する苗木を跳び越える修行だ。昨日跳び越えられたものを今日越えられないはずがないとして、やがて数メートルに育った麻をも跳び越えられるようになるという。しかしそんなことは不可能だ。人は大きく育った麻を跳び越えることなんてできないし、24時間365日正しいことだけを行うなんてできない。人間とはそんな厄介な生物なのである。

だから批判を受け入れる必要なんてない。批判者は私の上司ではない。彼らの言うことを受け入れたところで一銭の利益にもならない。安易に自らの否を認めて謝罪なんてすると、今度は反対側から矢が飛んでくることもある。つまりは、消費税を10%にします!と言うと増税反対の消費者や消費の冷え込みを憂う経済クラスタからの批判が押し寄せるが、だからといってじゃあやめます!と言うと今度は財政再建派や法人減税を目論む企業経営者からの批判が飛んでくる。一方を立てれば他方が立たないのは世の常で、批判が多いからと安易に発言をひるがえしたら、より一層の面倒に巻き込まれることも少なくない。

 

そもそも我々が"批判"ととらえているものは、本当に相手を謝らせたり考えを変えさせたりする意図があるものなんだろうか。たとえば飲食店のレビューを書く。あの店はやれ料理がマズいだの、やれ店員の態度が悪いだの、やれお茶も出さないだのと批判する。そうした批判は店側に改めてほしいのであれば、SNSやレビューサイトに書き込むのではなく食べた時に直接伝えるはずだ。対面で伝えるのは心的負担が大きいとしても、投稿するのとメールを送るのであれば大差はないはずで、それでも直接伝える(つまりメールを送る)ことをせずに不特定多数の人に見られるwebサービスへの投稿を選ぶのは、批判対象に振る舞いを改めてほしいからではなく、ただ自分の思ったことを発したい、あるいは愚痴や不平に共感してほしいからだ。これはきっとwebサービスやブログ記事に対する批判も同じことだろう。書き込まれた批判は、ただの意見・感想であって、それを通して相手に謝罪や改善を求めるものであることは極々わずかだ。私たちが恐れてしまいがちなインターネットでの批判なんて概してそんなものだ。そんなものをいちいち相手にしなければならないような義理はない。こちらのリアクションを期待していて、且つ納得できる内容の批判にのみ応答すればいいのであって、ただ批判の数が多いからといって萎縮する必要はない。"よくわからないけどとりあえず謝る"という悪手は避けていきたい。そんなことをする必要はどこにもないんだ。

 

※これは個人の意見です。 - 泡沫サティスファクション

批判され得る程度の責任はあるだろうけど、それを受け入れる必要まではなくて、個人の意見に対して批判は云々っていう人は批判に対して何かリアクションをとらないといけないという思い込みこそ正すべきに思える。

2015/08/01 10:50

b.hatena.ne.jp

プロが死んだ日本

意見・感想と嘆願・訴えの違いを聞く方も、おそらく言う側も区別できていない問題だと思う。素人だっていくらでも文句言えばいいんだけど、プロがそんなものをいちいち気に留める必要なんてない。

2015/07/30 15:49

b.hatena.ne.jp

 

 

  

hungchang 近田 CommentsAdd StarRlee1984

表現に対して、あーダメだ糞だって言うとき多くの場合それは感想や批判であって、もう見ない利用しないという宣言であることはあっても、それはあくまで自己完結的な内面の吐露であって、今すぐ止めるべき訂正すべき消え去るべきといった外部への働きかけを意図しているものはそう多くないと思う。でもそれが文字だと違いが分かりにくい。特に100文字程度の短文に分割されては、意見なのか修正案なのか判断できない。明らかに取り下げ変更を訴える人の声が大きいと、そのすべてが取り下げ変更を求める声のように見えてきて、結果として面白くない気に入らないということに対して謝罪という返答を出してしまう不幸。