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ワタミとは私たちである。あるいは、そんな言い方はないだろうという話

個別の事件に対して詳しい背景は知らない。どうせ死んだ人間の動機なんて知りようもない。だからできる限り一般的な記述をしていく。
 
自殺というのは普通望ましくないものとされる。安楽死を認めようと訴える人の中にも、自殺を肯定的に捉える人はそう多くないだろう。神に与えられた命だからなのか、周りに迷惑をかけるからなのか、人生とは素晴らしいものだからなのか、その理由はわからないけれど、自殺が良くないという意見にはなんとなく同意できる。
それでも自殺する人はいる。人はいる、というか国内で年間3万人近くが自殺している。毎日70人ほどが死んでいる計算だ。それくらいありふれた死因だ。
それだけ多くの人がいるんだから、中には「昔から一度死んでみるのが夢だった」って人や「もう面倒臭いから死のう」って人もいるかもしれない。だけど大多数はそれを選ばざるを得ない事情があったと考える方が自然だろう。死にたいわけではないけど、生きていると死ぬよりも辛い現実がある。要因として経済的理由と健康上の理由がトップとされている。*1
やむにやまれぬ事情による自殺。それを「社会に殺された」と呼ぶ人もいる。体罰教師であったり、ブラック企業だったり、そうしたわかりやすいターゲットがあると、私たちは簡単に彼らを叩く。お前らが殺したんだ、と。叩くことできっと自分は違うんだと思い込もうとしているじゃないかと思う。同じ社会の一員であることを拒絶して、彼らだけが悪者であるかのように振る舞う。だけど彼らがそんな無茶をしてきたのは、私たちの望むサービスを提供するためだということもままある。私たちが安価な食事を求めれば、それだけ提供者は無理を強いられる。私たちが効率的な社会を望めば、非効率な労働力は切り捨てられる。私たちが財政の健全化を進めることで、医者にかかれない人が増えてくる。そうして自殺に追いやられた人を「社会に殺された」というのはそう間違った表現ではないと思う。
 

yarukimedesu.hatenablog.com

 
もしバイトをサボるような感覚で自殺をしようとする人がいたなら「自殺してはいけない」と言ってやればいい。*2 だけど多くの自殺者はそんな覚悟ではないだろう。彼らにそんな"べき論"は通じない。彼らの苦痛を肩代わりするでもなく、解消することもできないで、それでも「自殺してはいけない」と言うのはあまりに残酷だ。半永久に苦しみ続けろと言っているに近い。
そして忘れてはならないのが、彼らが「社会に殺された」のだとしたら、つまり私たちが加害者であるということだ。私たちは第三者ではない。私たちが彼らの抹殺を望み、彼らはそれに適応したんだ。「社会に殺され」ゆく彼らが最期に社会に対して一矢報いようとしても不思議はない。その刃は社会に、すなわち私たちに向けられる。その様子を自らの罪に無自覚な私たちは、死ぬときにまで他人に迷惑をかける最低の人間だと感じるかもしれない。でも、きっと彼らの目にはそう映っていないだろう。今まで散々に自分を痛めつけてきた社会に、ちょっとやり返してやったに過ぎない。もちろん報復は倫理的に望ましいものではないし、法律もそれを認めていない。認めるべきだとも思えない。だけど、自らを省みることもなく、被害者ヅラして自殺者を糾弾するのはあまりに、あまりに残酷だ。これが死体蹴りでなかったら一体何が死体蹴りと呼べるのか。

 

*1:平成27年版自殺対策白書 概要(PDF形式) - 内閣府

*2:もちろんバイトならサボっていいわけではない。お願いしますからきちんと定刻に出勤してください。