はてなではクズにクズと罵られる

元のツイートは悪文といえばたしかに悪文かもしれない。読み違える要素は十分にある。だから読み違えたことは仕方ないし、その非を自ら認めて表明しているのは中々できることではない立派なことだと思う。勘違いするような文を書く奴が悪いとか言ってしまいがちなんだけど、彼らはそうしていない。でも本人がそうしていないのに、なぜかどこからか湧いてきたのが元ツイートを批判している。流石ははてなブックマークだと楽しくなってくる。

 


はてなブックマーク - kadongo38さんはTwitterを使っています: "日本の知識人の層の薄さは、メイロマ女史みたいな論理立てた文章で自分のいいたいことを表現できないような類の人間が大きな顔をできるところ。ふ


投稿前にきちんと推敲すべきという意見はまったくの正論である。でも、正し過ぎて肩が凝る。文章を推敲とか、そうした堅苦しいこと無しに気軽にポストできることがTwitterの魅力であるはずだ。もちろん何も考えずに気軽に投稿し過ぎることで不幸な事件が毎日のように起きているのも事実である。だがそれは書く内容についてのことであり、言っていいことと悪いことがあるよね、って話である。だけど、文章の推敲というとまたちょっと違った話になる。話す内容がふさわしいかどうかは日常会話でもある程度意識するだろうが、正しい日本語を意識して喋ったりはなかなかしないだろう。そのふたつでは掛かる負担がまったく違うからだ。気軽にポストできることが魅力のサービスで、ユーザーに推敲の責任を課すのはちょっと酷ではないか。推敲した方がベターである点は疑う余地も無いだろうが、推敲していないことを責めるのもまた難しいように思える。それに元ツイートは読みにくくこそあれ、決して「正しくない日本語」ではない。
 
「女史みたいな」を「女史みたいに」とすれば誤解されることはなかったというコメントも複数見られるが、これにも私は賛同できない。曰く、「みたいな」であるから形容先が「論理立てた文章」なのか「類の人間」なのかわからないが、「みたいに」であれば係るのは「表現できない」しかないとのこと。しかし日本語の表現として「○○みたいに☓☓できない」というとき、普通「○○は☓☓できる」ことを意味する。「女史みたいに表現できない」であれば、「女史は表現できる」と当然に読まれる。この方がよほど誤読は増えるのではないかしら。それならば、「女史みたいな」と「表現できないような」が並列で「類の人間」を修飾している現状の方がよほど誤解される可能性は低い。
 
そして、今度はかわんご氏擁護だが、何より酷いのがこのブコメだ。

kadongo38さんはTwitterを使っています: "日本の知識人の層の薄さは、メイロマ女史みたいな論理立てた文章で自分のいいたいことを表現できないような類の人間が大きな顔をできるところ。ふ

「めいろま女史みたいな」は「文章」を修飾し得ないから、ここで読み間違えするクズは小学生からやり直し。二度とはてな村に書き込まないこと。

2015/03/04 06:19


「めいろま女史みたいな」は「文章」を修飾し得ないから、ここで読み間違えするクズは小学生からやり直し。二度とはてな村に書き込まないこと。 - merzo のコメント / はてなブックマーク


「「めいろま女史みたいな」は「文章」を修飾し得ない」という断定がものすごい。いつの間にそんなルールができていたんだろう。これは推測だが、きっと「女史」は人間だけど「文章」は非人間なので、「みたいな」で修飾することはないという発想なんだろう。だとしたらなんて残念な言語感覚だ。
制作物をその作成者の名前で呼ぶことは、日本語ではまったく珍しいものではない。太宰を読むとか、春樹みたいな文章とか、どこもおかしい表現ではない。いったいどんな生活をしてきたらそんなことも理解できないんだろう。小学校で教わったりはしないかもしれないけど、義務教育を終えるくらいには自然に身につく言語感覚だし、そうした表現を今まで見ていないのなら接してきた文字数が余りに少な過ぎる。中学校からやり直すことを強く奨めたいところ。