そのルールには参加していない

文章の趣旨にはすっごい同意できて、ミニマリストとか得体が知れないから定義が欲しいというのは本当にそう思う。でも、それは我々側の一方的な発想に過ぎないんじゃないかとも思える。
 

 


たとえばロックの定義って何だって話になると、ロッカーやその愛好者だって答えられる人ってすごく少ないだろうし、答えたとしてもその回答は人によってかなり違うと思うんだ。ロックンロールはロックに含まれるのかとか、中にはメタルはロックじゃないって言い出す人だってきっと出てくる。ロックの権威的な人に聞いてみると、そんなことを気にしてるのはロックじゃないだとか言う決まってる。っていうのは私の偏見に過ぎないんだけど、きっちり定義付けして線を引くことが必ずしも多くの賛同を集める方法ではないはず。私のように横から眺めてふむふむなるほどと勝手にわかった気になりたい人間には明確な定義が欲しいけれど、定義付けを好まない人たちだって当然いる。だってそういう固っ苦しいのが嫌な集団なのかもしれないんだから。


 
赤ん坊が二本足で立ち上がり、言葉を覚え成長し、大人になっていくのと同じように、野生の動物が群れを作り、共同体に秩序が生まれ、成文法を持つようになる、そうやって文明が進展していくんだという考え方がある。それに則れば、成文法を持たない社会は、持つ社会と比べて野蛮であるということになる。進んだ文明社会の大人は、野蛮な子供たちを教育して正しく導いていくべきなんだ、とされる。だから私たちはアフガニスタンに学校を建て、インドに根付くカースト制度に憤り、一方で捕鯨や死刑制度を非難され、女性の一層の社会進出を求められている。
だけど、たとえば鯨を食べることは本当に野蛮なことなのか。野蛮っていったい何なんだ。それはお前たちの感覚で勝手に相手を裁いているだけなんじゃないのか。

 

未開人が文化的な社会生活を送っていない、などと考えるのは、文明人の偏見だということです。未開人は、動物のように、秩序のない混乱した生活をしているのではないのです。未開人には未開人なりの文化的生活があるということです。
 そしてその、未開人の文化というものは、人類にとっての普遍的な文化の構造を持つものと考えられるのです。つまり、未開人も、文明人と同じく、人類共通の理性によって、文化を築いて生活しているのです。文明人が、野蛮人であると考えているような未開人も、人類共通の理性能力を備えており、文化を形作っているのです。

レヴィー=ストロースの構造主義について

 

定義付けが必要だとする考えは我々「文明人」側の発想に過ぎなくて、「未開人」には「未開人」の哲学がある。その哲学を知りたいならもっと観察するべきだろうし、議論がしたいなら共通言語を探さなければならない。我々こそが正当であり、我々のルールに従わない者は愚かであるという宣言は見ていて痛ましい。