判断のアウトソースとしての伝統という価値

界隈の人たちがしきりに江戸しぐさを反駁している。そんなに必死になってやるようなことなのかと思いながらも、江戸しぐさにはやはりどこか嫌悪感を抱く。

 

フィクションを土台に倫理を説くことそれ自体はさほど気にならない。教訓めいたいい話なんて昔も今も大抵はつくり話だ。真っ赤な嘘とは言わないにしても、真実を土台にパテで塗り固めて、もう原型がどこにあるのかわからないような話ばかりだ。

厚化粧のいい話ばかりになってしまうのは、前に書いたコミュニケーションは伝わらない - 殴る壁ともかぶるけど、それが人間の認知の限界なんだから当然だと思っている。たとえば昨夜何を食べたかを述べることはできると思う。だけど、食べた物がどんな味だったかを正確に答えることはできない。人間の感覚は、言葉で言い表せるほど単純なものではない。その時に感じたものに出来るだけ近い言葉を探しだして表現することしかできない。その言葉選びにはどうして意図が絡む。すべての言葉は、発した人の解釈を既に含んでいるものなのだ。

そうした言葉の中から、目に見えない真実を探し出すことは、無駄とは言わないが、気の遠くなる作業だ。その気の遠くなる作業こそが人文科学の仕事であるが、普段の生活の中でそんなことをしてはいられない。できもしない判断を下すよりも、真偽不明のまま受け入れる方が私は好きだ。ヒゲ剃りはスッピンに入るけど、眉カットは化粧だからアウトと線引きするよりも、こういうメイクは好き、このグロスはくどいからイヤといった評価の方が現実的に思える。

 

ただ、真偽を問わずに受け入れて自らの基準で判断するというのは、その都度その都度に判断することが求められてくる。物事を判断するというのは脳にかなり大きなコストを強いる。いちいち俺に聞いてこなくていいから脊髄の方で勝手に決めちゃってくれよと大脳皮質が訴える。

判断のアウトソースとして、伝統という判断基準がある。長い年月を経て生き残った考え方は概ね正しいだろうという判断だ。フリーターより、ノマドより、ゆるい就職よりも終身雇用で働きたいよねって話だ。もちろんそれが常に立たしいわけではなく、時代にそぐわなくなった古い価値観もあるだろうが、昨日今日ぽっと沸いて出てきたアイデアよりは、多くの反論を打ち破ってきたであろう伝統的な思考の方が信憑性が高い。

 

長い年月を経て培われたものはある程度信頼足り得る可能性が高いから受け入れよう。あるいは、即時受け入れないにしても、受け入れ判断にコストを費やす価値はあるはずだ。そうして設定したフィルターにすり抜けて入り込んでくるのが江戸しぐさだ。

こっちも古いものがすべて無条件に正しいとは思っていない。歴史を経てきたものの中にも、もう古くて役に立たないものがあることくらいは織り込み済みだ。しかし、江戸しぐさは十分な歴史の審判に耐えてもいないのに、判断コストを強いてくる。いや待てお前おかしいだろ。どうしてセンターで60%しか取れていないのに二次試験を受けているんだ。もちろんわかるよ、センター60%取れない奴がすべてクズだなんてことはないし、入学に足る学力を持っているかもしれない。でも、全員分の論述を採点してるような暇はないから一次試験で足切りしてるのに、どうしてお前だけ基準に満たないままで二次試験会場にいるんだ。そこを偽るのは、試験で0点を取るよりもよっぽど罪は重いんじゃないの?

 

私が江戸しぐさなるものを知ったときには、すでにその伝統性に異議が唱えられているときだったので、幸運にも判断コストを費やすことないまま現在に至っている。私は被害を受けてはいないので、必死に反駁するような情熱はない。また判断のコストを払っていないので、「その付属物はまがい物だけど、規範は素晴らしい」という意見に対してはYESともNOとも言えない。今後もコストを費やすつもりはない。それだけの価値も無いと思っている。