体罰の全廃を叫ぶことは教育現場をブラック企業化させていないか

体罰問題で気になるのは、体罰無しに本当に十分な教育ができるのかということ。

「体罰無しに」というのは、「体罰というカードを持っている」という抑止力を含めて。

 

個別に見て、もちろんそれは不可能なことではない。

一度も体罰を受けずに育った立派な人間なんていくらでもいるだろうし、そうした教育をずっと続けてきた人だっていることだろう。

逆に「私は体罰を受けてきたからこそ立派に育った」と言い張る人だっていくらでもいるだろう。

 

そんな個別の事例はどうだっていい。

 

100mを9秒台で走れる人もいる。

だからって誰でも9秒台で走れるわけではない。

もしかしたら「体罰無しの教育」というのは、「9秒台で走る」と同じ「できる」じゃないのか。

 

9秒台じゃなくて、10秒台でもいい。

それは出来る人も少なくない。

十分なトレーニングを積めばできるようになる人も多いと思う。

でも、トレーニングを積めば誰でも必ずできることではない。

できない人はできないし、それは決して一部のダメな奴ではない。

 

同じように「体罰無しの教育」ができない教育現場は少なくないと思う。

教師はそんな素晴らしい人間じゃないし、素晴らしい技術を持ってやいない。

それなのに「体罰とは悪である」として、すべて体罰を追放してしまっていいんだろうかという思いがある。

 

 

 

なにも体罰を肯定したいわけではない。

私も体罰を全否定したい気持ちでいっぱいだ。

でも、全否定できる状態にないのが現状じゃないかと思う。

まずは土壌づくりが先決じゃないかと。

 

ゆとり教育をそうやって失敗した、と私は考えている。

決してゆとり教育の理念は間違っていなかったと今でも思っている。

知識の詰め込みよりも、自主性や創造性を大事にするというのは間違ってはいない。

ただ問題は、そうした指導を行える教員があまりに少なかった。

文科省も教師を支える体制を作ることができなかった。

結果としてただ知識の量が減っただけで、自主性を育むことなどできなかった。

 

体罰の追放も同じことにならないかと不安。

 

体罰は良くないことだ。

法的にも、倫理的にも、そして教育学的にも悪いことばかりだ。

でも、それでも現場を回すためには仕方ない場合もあるんじゃないかと思う。

体罰を無くすためには、まず回せる現場を作る必要があるんじゃないかと。

 

 

 

 

 

40人もの子ども全員に言うことを聞かせるなんて並大抵のことじゃない。

 

 

部活動であれば、もっと多くの生徒を相手にしなければならない場合もある。

 

個別に使える時間なんてないし、使える武器も限られている。

そうした中で、体罰というのはすごく手っ取り早い。

誰も暴力を受けたくなんてないから、言うことを聞くインセンティブがはたらく。

効率的に現場を回すことができる。

 

個人的には、「愛のある体罰」なんて嘘っぱちだと思っている。

体罰なんて効率的に回すだけの手段だ。

本当に愛があるなら時間を割いて指導すればいい。

それをしたくないから暴力に逃げる。

立派に育って欲しいという思いはあるんだろうが、そのために他のことを犠牲にする覚悟はない。

それを私は「愛」とは呼びたくない。

 

もちろん犠牲を求めているのではない。

愛も体罰もいらない教育システムこそが必要なんだ。

 

たとえば、教員を増やすこと。

36人学級とかケチ臭いことではなく、20人くらいにまでしないと、教師の負担は減らないように思う。

 

たとえば、公立校でも落第や退学処分を可能とすること。

公立の小中学校では不良生徒に対する抑止力がほとんどないのが現状。

 

たとえば、学校教育では一切の生活指導を放棄する。

学校は勉学の場だと割り切れば、そもそも体罰を持ち出す必要がなくなるはず。

 

たとえば、教師の待遇をぐっと上げること。

体罰の無い教育を実現できる優秀な人材がこぞって教師を目指すほどの労働環境を実現させる。

 

 

 

これらが実現可能かどうかはわからないけど、現状のままただ体罰を追放するだけで、子どもの受ける教育環境が良くなるとは思えない。

ただやみくもに教育者を締め付けるようなことばかりしていても、解決することがないことだけはたしかだろう。

そればかりか、優秀な人材はどんどん逃げ出していく、他に仕事が無いから就いた教師ばかりなんてことにもなりかねない。

体罰は憂うべきことだけど、まず体罰の生まれる環境を改めないと問題は解決しない。