違うだろ

マジ糞でしかない。
違うだろ。禁止されているんじゃないだろ。お前が禁止しているんだろ。
民法とか法令で禁止されているなら「禁止されている」って書けばいいけど、そうじゃないだろ。禁止している主体はお前だろ。なに第三者に決められたみたいなこと書いてんだよ糞が。ちゃんと「禁止します」って書け。
せめて「禁止されている」んだったらその出典を書けよ。法令じゃなくても、利用規約何条でって書けよ。書かれないと参照できないじゃないか。それもできないなら「禁止します」って宣言しろよ。
だいたい「管理会社」ってなんだよ。なんて会社だよ。主体性が無いにもほどがあるだろ。社名くらい明記しろ。問い合わせることすらできない。

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近況

KindleFireを買ってからは小説家になろうばかりを読んでいて、最近のはてなの話題にまったくついていけていない。8インチタブレットはテキストの閲覧には本当に優れた機器で、web小説を読み漁るのに最適だ。これが10,000円を切って販売されていたんだから、そりゃあ買うし、買って良かったと思っている。

しかしFireはAndroidのようでAndroidでない。Google Playストアを落とさないと使えるアプリは少ないし、まずそのPlayストアを落とすのが一苦労だった。そうしてようやく落としたアプリも、Fireには対応していないものだってある。FireはAndroidでないのだから仕方ない。それに、これはFireのせいではないのだけれど、アプリやwebサイトの中には、より小さいスマホ画面で見ることを前提に設計されていて、8インチ画面ではかえって見づらいというものも少なくはない。

他方なろうリーダは良いアプリだ。動作は軽く、画面はシンプル。文字サイズも選ぶことができる。ある程度のキャッシュを読み込んでくれるので、オフラインでも読み進めることもできる。

 


Fireでなろうを読み漁っている理由のひとつに、ずっとベッドで横になっているから、というのもある。体調が優れない。

春先に患った咳が未だに抜けない。7月にはそれで骨を折った。肋骨の疲労骨折だ。それがようやく落ち着いてきたと思ったら、今度は風邪がぶり返してきた。仕事が休みの日には寝ていることしかできない日が続く。貯め込んでいた無理が休みの日にあふれ出してくる。

こう体の不調が続くと老いを考えずにはいられない。もしかすると今後の人生において「調子が良い」日というのはもう訪れることがないのではないか。そんな恐怖が過ぎる。今まで健康のことなど碌に考えたこともなかった。だけど今は考えざるを得ない。健康で文化的な生活を送りたい。

 


ところで、自宅でtumblrが十分に見られない。ダッシュボードは見られる。しかしtumblrの各ブログを見ることができない。ダッシュボードからのリンクも、一旦tumblrのページを介して他サイトへ跳ぶ設計となっているのでアクセスすることができず、ソースを辿ることさえできない。

はじめはtumblrのサーバが不安定なのかと思った。でもそうじゃなかった。何日経っても改善されることはないし、そのことに不満の声が挙がることもなかった。そうしていろいろ試してみて気付いたが、どうやらWiMAXルータを経るとアクセスできなくなるようだ。我が家は固定回線を引いておらずWiMAXを利用しているので、PCからは(ダッシュボードを除いて)tumblrにアクセスすることができず、iPhoneau回線を利用したときだけ繋がる状態だ。しかしどうしてWiMAX(もしくはそのISPであるSo-net)はそんな措置をとっているのか。納得がいかない。

肋骨が咳で折れて半月が過ぎました

気づくと胸が痛かった。
数日前から違和感はあった。筋肉痛かな?と思っていた。しかしそれはいつまでたっても回復することなく、ある晩、急に痛みが増した。
翌朝起きてもやはりまだ痛かった。むしろ増している。少し動くだけで胸全体に痛みが響いた。これはやばいやつだなと思った。
とりあえず病院を探そう、と思った。しかし何科に行けばいいのかわからない。おそらくは臓器ではなく、肉とか骨とかそっちの痛み、のような気がする。でも確証がない。心当たりだってない。どうしてこんなことになってしまったのか。Google先生は、咳を繰り返すことで、肋骨を折ることもあるとおっしゃる。他の可能性も考えにくいけれど、だからといって本当のところはわからない。整形外科に行くべきなんだろうか。それとも内科だろうか。いっそ外科のほうがよかったり。もうまとめて全部やっているところなんてないのかしら。そう思って検索したら、自宅から3駅ほどのところにあった。日曜日でも診療している。念の為、 電話で状態を伝えた。専門医はいないけど、とりあえず診てみましょうとのこと。ありがたい。
聴診器を当てられてから、心電図とレントゲンを撮った。担当医は、まず心臓の病気を疑っていたようだが、心臓にも肺にも異常がないことを喜んでいた。そして、どうやら骨が折れているようだと伝えられた。咳止めと痛み止め、抗生物質を処方され、コルセットのようなものを購入した。どういう理屈か、このコルセットのようなものをつけると痛みがいくらかやわらぐ。
だがちょっと待ってほしい。足の指を骨折したときなんかは、ギブスでガチガチに固定され、足を満足に動かすことはできなくなるが、そのかわりよほどのことがなければ足が痛むこともなかった。ところがどうだ。この気休め程度のコルセットだ。たしかにいくらか楽にはなる。だけどこいつが防いでくれる痛みはごく僅かだ。ちょっとかがめば痛むし、腕を上げても痛む。笑うだけでも、咳をするだけでも痛くなる。もう三ヶ月のあいだ咳が止まらず、その結果骨が折れるに至ったのに、その骨が咳をするだけで痛む。これはつらい。出来得る限り咳を我慢する。だけどもちろんそれにも限界がある。咳が出る。痛い。つらい。このまま咳が続くようでは永遠に骨折が治癒することもないのではないかという恐怖もよぎった。つらい。
もうひとつ、地味につらいのが、睡眠だ。少し体勢を変えると骨が痛むので、仰向けでしか寝ることができず、寝返りも打てない。そうすると2~3時間ほどで目が覚め、肩から腰まで上半身全体が痛む。体を起こして、10分程度休んでから、また仰向けで眠る。また数時間後に目が覚める。それを一晩中繰り返すことになる。そんな日が2週間続き、今では咳き込むか、あるいはよほど変な体勢にでもならない限り痛みはなくなったが、どうやら横を向いて寝ることはその"よほど変な体勢"にあたるらしく、今でも寝返りを打つことができず、数時間ごとに目を覚ますことを繰り返している。

予想は当たっているかもしれないけれどそれは論理的ではない

サマータイムは教育にこそ大きな影響を及ぼす

なんで「不登校児が今以上に増えるのは間違いない」んだろう。睡眠時間には関係ないだろうし、現状でも4時前には薄明るいんだから暗いうちに家を出なければならない人が多いとも考えにくい。

2018/08/11 13:34

b.hatena.ne.jp

サマータイムは教育にこそ大きな影響を及ぼす

<a href="/hungchang/">id:hungchang</a> さん、不登校生の中に占める「起立性調節障害」の比率は低くなく、症状として「朝起きられない」があるので、まちがいなく不登校増えるでしょう。書き足した: <a href="http://mazmot.hatenablog.com/entry/2018/08/11/153136" target="_blank" rel="noopener nofollow">http://mazmot.hatenablog.com/entry/2018/08/11/153136

2018/08/11 14:33

b.hatena.ne.jp

mazmot.hatenablog.com

 

ううむ、読んだけど、全然因果関係が明確ではないですよね。少なくとも記述されている範囲では。
いや、わかるんですよ、なんとなくは。間違っていると言いたいわけではない。でもそれは自明なことではないし、因果関係が不明瞭だと言いたい。和食が体にいいみたいな言説はたしかにもっともらしいし、きっとそうなんだろうけど、本当かなあという疑問がどうしても出てくる。それと同じ疑問。たしかに脂質は少ないかもしれないけど、その分糖質が多いし、塩分も過剰になりがち。優れている部分は多いんだろうけど、それが自明みたいに言われても困る。

当該エントリーは、不登校の原因には様々あるが、その一因に起立性調節障害があるということから始まる。その障害名やメカニズムはともかく、そうした人がいることは知っている。知っているというか、姉が起きられない人間だった。朝起きることができず、高校は単位制の学校に転校し、大学も通いとおすことができず中退した。当時から様々な病院を転々とし、やがては障害者手帳を持つに至った。まあそんな話はどうでもいい。

次に記されるのは、中高生にとって朝起きられないことは特別なことではない、という話だ。彼らは歳を重ねるごとに就寝時刻が遅くなりがちだが、起床時刻も必要な睡眠時間もほとんど変わらない。故に多くの高校生が寝不足に陥っているという。
ここまでは論理だって記述されている。


重要なことは、子どもたちが眠くなる時間帯は、部分的には習慣であるかもしれないが、より強く、自然時間に縛られているということだ。人間が猿の時代から受け継いだリズムとして、夜、暗くなってすぐには眠くならない。だから、自然の既日リズムを無視して、1時間とか2時間前倒しすることはできない

問題はここだ。睡眠リズムが習慣よりも自然時間に縛られているというのは、これまでの論を覆す。自然時間がより重要なのであれば、彼らは日の出とともに目を覚まし、日が沈むと(あるいはそれから数時間が経過することで)起きていられなくなってしまうはずではないか。しかし前述の内容ではそうではない。若者の就寝時間が遅くなることが問題とされていた。これではサマータイム不登校増加につながるとする説明となり得ない。

またここからの記述に関しては、前述の起立性調節障害や睡眠パターンの箇所とは違い、論拠となりそうなものは何も記されていない。「きっとそうなるに違いない」というmazmot氏の予想に過ぎないのだろう。推論自体が間違っているとは言わない。サマータイムにより生活リズムが狂うことで、なんとなくそうなるだろうとは私も思う。だけど、それはちっとも明確なことではないんだ。少なくとも当該エントリー内でその因果関係と呼べるものは記されていない。

バカとはてブ

fujipon.hatenablog.com

 

一理あるけど、言い過ぎだな、とは思った。普段はかなり慎重に言葉を選んでいるfujiponさんがたまに炎上覚悟ででかいこと言い出すときがあって、まあこのエントリーもだいぶ言葉を選んで書いてはいるんだけど、それでも誤解を恐れずに書いている印象は強かった。そして案の定に叩かれたわけだ。もちろん批判されるべき部分もあっただろうが、私には十分それは意義深い論旨に思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これからしばらくしてfujiponさんがもう一本書いたんだ。これがイケてなかった。

 

fujipon.hatenablog.com

 

内容に賛同できるかどうかはともかくとして、彼は、いつもとてもわかりやすい文章を書いている印象だった。だけど、このエントリーは違った。冷静さを失うほどに前のエントリーへの反響が気に入らなかったのかしら。それにしても随分と日にちも経っているのに。

まず前半部では米銃規制の現状と米国内での賛否についての本の内容がつづられる。武器を持つことによって弱者も強者と同等に権利を保持することができるのであって、その規制はエリートばかりを守るものであり、格差の拡大になるという考えが少なからず支持されているという。しかしそうした考えは弱者が自らの手で身を守らなければならない状況が存在しない日本人にはいくら言葉を尽くしても理解されにくい。

 

 銃規制に反対する人たちの大部分は、誰かを撃ってうっぷん晴らしをしようとしているわけではなくて、自分の身を守るためには、銃が必要だ、と考えているのです。
 日本のように、現時点で警察や自衛隊、あるいは一部の反社会的な勢力しか銃を所持していない国であれば、「銃を拡散しないほうが安全」だと多くの人が感じていても、アメリカのように、すでに銃が大量に出回っている社会では、いまさら銃を規制されても、「自分だけが身を守れなくなるのではないか」という不安が先に立ちやすい、というのも事実でしょう。
 それでも、僕は自分自身の価値観から離れることはできないこともあり、ずっと銃所持には反対なのですが。


 僕は、ネットで他者に話を聞いてもらうことの難しさを、最近あらためて痛感しています。

 

こうして後半部では、「廃止論」がきちんと読まれずに見当違いな反論がなされていることをつづり、説明しても理解を得られない構図が同じだとするのだが、それは流石に無理のある展開ではないか。

まずどの立場からの「理解されない」なのかがわからない。規制派である米エリートの立場から反対派である貧困層へのものなのか、あるいはその逆なのか、もしくは本の著者から多くの日本人へのものなのか。それを決定づけるものは見つからず、というのも「理解されない」ことの他に共通するものが存在しないからだ。少なくともブログ記事中にそう読み取れるようには書かれていない。

また銃規制について語った前半部ではそれぞれの主張がどちらも一理あるものだったはずなのに、後半部の「廃止論」への反応についてでは挙げられている例が反論たりえないものしかない。銃規制との類似はどこへいってしまったのか。きっとfujiponさんの頭に中にはもっと多数の類似があるんだろうけど、読んでいるほうは置いてけぼりだ。

 

置いてけぼりではあるんだけど、それでも彼が、自分の書いた文章が頭の悪いブックマークユーザーに正しく読解されていないことを嘆いているんだということはわかる。きっと彼の主張はそこだろう。そういうことはある程度理解できる。頭に血が上りながら書いた文章なのかもれないけれど、それくらいのことは容易に読み取ることができる文章がしっかりと書かれている。だけどブックマークユーザーの反応は違った。

もちろんすべてがそうではないが、前のエントリーが、その内容が叩かれたことが悔しくて、ブックマークユーザーが憎くて、はてなブックマーク廃止論を増強するためのエントリーだとして、その反論を書き込んでいるものが多くなった。冷静に読めば、今回の論旨がそこでないことはすぐわかるだろうに、自分が攻撃されていると思い込むと一気に好戦的になる様はあまりに憐れ。そうした振る舞いがかえってfujiponさんの主張の正しさを印象づけるものになっている。*1

 

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 

こちらの記事には同意するところが多い。多くの批判者は「リンチ」をしている自覚はないことだろう。それぞれのユーザーが各自で思ったことを書いているに過ぎない。そうすると叩かれた側や、ときには第三者からも、それがリンチに見えてしまう。結果的にリンチのように見えてしまうことは仕方ないこととはいえ、決して望ましいことではないだろう。

最近少し心配になることがあって、この「仕方ないけど望ましくない」という感覚は共有できるものなんだろうか。「仕方ないけど望ましくない」という状態が存在するということもそうだし、結果的にリンチかのように見える事態に陥っている現状が「仕方ないけど望ましくない」と思ってもらえるんだろうか。もしそこが共有できないものであるならこの先に書くことがすべて無になってしまう。インターネットに書き込まれがちな強い言葉たちを見ていると、そのあたりから心配になってくる。ここには馬鹿しかいないんじゃないかって。インターネットはバカと暇人のものとはよく言ったものだ。

 

もし我々がバカでなければ、必要以上に叩かれている人がいたなら、自分の言いたかったことをすでに言葉に記している人がいたなら、それ以上の同じ批判を重ねないという振る舞いを取ることができる。バカをバカだと罵ることはバカにだってできる。そうしたことは黙っていても勝手にバカがやってくれるのだ。しかし、バカには気付かない視点というものがある。私がはてなを好きなのは、そうした視点を効率よく集めることができるからだ。*2 だからそうした視点はできる限り発掘したいし、あるいは自分が気が付けば積極的に書き込みたい。強い言葉を使ったバカが群れている中で、自分のバカに混じって気が大きくなるようなことは避けていきたい。それもなかなか簡単なことではないんだけれど。

あるいは、本来はユーザーの自助努力ではなく、システムによって解決したいところ。ブックマークコメントは多くの意見が集まることに意義があるもののはず。それであるなら同じ書き込みなんてゴミでしかない。はてな社が自然言語処理に精力的に取り組んでおり、また秀でた技術力があるというのが本当であるなら、何らかの解析、処理を経て、無価値なコメントの表示を抑える仕組みが作られてしかるべき。少なくとも、ユーザーのよる評価であるスターシステムのみによって「人気のコメント」を決めて、それを優先的に表示させる仕組みは、強い言葉を積極的に評価する結果を招いてしまうことは明白で望ましくない。ユーザーはバカであるという前提に基づいたシステムを作り直す必要があるのではないか。はてな社はユーザーの善性を信頼しすぎるきらいがある。

*1:「どっちもどっち」といったほうが正確かもしれない。

*2:もちろんはてな全体にはバカのほうが圧倒的に多い。その中から有益なものを探すのだ。それが他のツールで行うよりもずっと効率的なのである。

2年目のマストドン雑感

いつの間にかMastodonが日本人に見つかって1年が過ぎていた。おそらくは突発的なムーブメントが起こらない限り、これ以上大きな動きはないんだろうなと思われる。つまりは、Mastodonが爆発的に広まることも、Twitterの代替となることもなかったということだ。とはいえFacebookだって忘れ去られた頃に再ブームが来て一世を風靡したことを思えば、まだこれからMastodonが来る可能性もないわけではないが、分散型であるために大きな資本によるMastodonのブームが起こされる可能性は極めて低く、まあ難しいだろうなとは。

最近のPawooの動向で言うと、昨年は活発に活動していた人たちがかなりいなくなったという印象がある。はじめから物見遊山のいつもの人たちではなく、熱心に活動していた人たちがいなくなった。日本語環境からまったく姿を消した人もいれば、Twitterに帰っていた人もいて、Discordにこもっている人もいるし、個人鯖に移った人もいる。Pawooのローカルタイムラインを構成する顔ぶれはだいぶ変わった印象が強い。*1
変わってどういう人が増えたのかといえば、Pixiv的な、絵を書く人たちが増えた印象がある。最近ではメディアタイムラインが常に動き続けている。Pawooにはそれだけ画像が投稿され続けているということだ。昨年の秋口に何度かPawooの人口が大きく増える動きがあり、Twitterでの絵師凍結騒ぎをきっかけに、Pawooを利用する絵描きが増えたようだ。それに伴って、というべきかどうかわからないが、公開範囲やNSFWの用い方でしばしば論争が起こるのもPixiv的だなと感じさせる。PawooがPixivらしくなっていることは、一年前の私の予想*2と合致する動きではあるんだけれど、しかしPixivに慣れ親しむことないままPawooのアカウントをメインにMastodonを利用している私にとっては、少し淋しいところもある。

PawooがPixivらしく移り変わっていると感じさせる一方で、インスタンスの垣根がとても低く、話題がすぐに伝播するのもMastodonらしさであり、とても良いなと思える。先のNSFW論争を私が知ったのは、JP鯖の人たちが自警団的なローカルルールの掲揚に反発しているのも見てのものだった。
JP鯖は、というのはつまりmastodon.jpのことを指すのだが、とても自由奔放に見える。おそらくサーバ管理者がユーザーに認めている自由さではPawooもJP鯖も大きくは変わらない。Pawooは企業運営とは思えない自由さをユーザーに与えている。しかし、Pawooにはどこか窮屈さを感じる人はおそらく私だけではないだろう。表現者にありがちな偏屈な人も少なくなく、上記のようにローカルルールを掲げる人もあれば、Twitterでのユーザーの振る舞いを揶揄する投稿も少なくない。閉じたコミュニティ内で*3他者を批難することで自らの結束を確認する女子中学生のような陰湿さを感じてしまう。そうでなくても、絵描きでない私が、イラストとは無関係なトゥートを繰り返していいものだろうかという後ろめたさも若干あり、時としてローカルタイムラインに緊張感がある。
他方のJP鯖は奔放だ。カテゴリーのくくりのない雑談鯖で、下ネタが多く飛び交う中、真面目な話を始める人もおり、もちろんそれが咎められることもない。Pawoo以上に多く罵倒が飛び交うが、それが冗談であることは誰の目にも明らかだ。まるで小学生男子ばかりが集まっているかのような賑わいだ。彼らは、特に頻繁に投稿をする人たちを中心に、オフラインでも頻繁に会っているようで、そこから漏れ聞こえる様子では、彼らが自嘲的に言う変態、KKOなどとは違って、少なからずリアルが充実しているように見え、ここにもまた一抹の寂しさがある。
個人運営の中小鯖は閉じていったものも少なくない。簡単にインスタンスを立てられるとはいっても、自分で一からサービスを作るのと比べて簡単だというだけであって、運営がさほど簡単なものでないことは容易に想像がつく。他方ざぼてくのように何故かユーザーを集める個人鯖も中にはあり、しかし集まったら集ったで運営はより大変だろうなと思うところでもある。さぼてくの鯖が落ちて書き込めないというトゥートもしばしば見かける。
なのでその苦労がまったくわからないでもない*4ので、ねことどん復旧気長に待ってますのでid:cj3029412さんは命を大事に。

*1:昨年のエントリー限界オタクとMasto.Host事件 - 殴る壁はトゥートを埋め込む形で書いたが、発言主のアカウントが消えてしまい、もはや白紙状態となっている。

*2:マストドン 雑感 - 殴る壁

*3:実際には閉じていない

*4:実のところはよくわかってはいないけれども

過ぎ去った話

お前らそんなにハゲ子氏のこと好きだったのかよという思いがあり、いやしかしそうじゃないんだろうなと思い直す。「ハゲ子氏への思い」というより、「死への思い」が違うんだろう。
人が死ぬということの哀しみを未だにうまく理解できていない。もう二度と会えなくなるんだということくらいはわかっている。でも、どうせ会わないじゃないか、という思いがある。どうせ会わない。これはハゲ子氏がnet上の人格だからという意味ではない。リアルな人間であっても変わらない。同級生が死んだ10年前もそうだった。みんな悲しんでいるんだけれど、私にはそれがよくわからなかった。だってどうせもう会わないじゃないかって。実際に他の同級生たちとも年たま単位で会っていない。その内の何人かとは去年連絡を取ったという程度だ。どこかで生きているけれど直接会うことも連絡を取ることもなく暮らしているのと、死んでしまったのと、何が違うのかがわからないんだ。
ハゲ子氏に関して言うならば、私は彼のブログ読者ではなく、その他SNSもフォローしていないんだけれど、たまに事が起こったときに彼ほどわかりやすく、漏れなく、面白く事をまとめることのできる人はいないので、そうした人材を失った悲しみはある。私の敬愛する人は少なくないが、そうした有用な人材は極稀で、ある意味では「好きな人」よりも代替性が乏しい。そうした悲しさは小さくないが、しかしそれはどこまでいってもツールを失った悲しさであり、かけがえのない命に対するそれではない、と思うんだ。思うんだけど、「かけがえのない命に対するそれ」を理解できていないのでよくわからない。本当は人を失った悲しさは、貴重なツールを失った悲しさが拡大したものに過ぎず、「かけがえのない命に対するそれ」なんてものはそもそも存在しないのかもしれない、なんてことを考えている。