限界オタクとMasto.Host事件

「限界オタク」の一般的な意味と用法は各自でググってもらうとして、互いをそう罵り合う頭のおかしい人たちがpawooにはいる。タイムラインをチャットルームのように使い、昼夜問わず下ネタを投稿し続ける。開設わずか一ヶ月足らずのサービスにして彼らの投稿数は10,000トゥートに達する。その中の一人が、新しいインスタンスを立てた。限界オタクたちのための、限界鯖だ。正式なタイトルは知らないが、pawooではそう呼ばれていた。そして、立てたばかりのインスタンスが数時間の内に閉鎖に追い込まれた。

 

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要は、想定外の使われ方にサーバ運営が追いつかなかったということ。botを使ったわけでも、何かサービスの穴を突いて悪用したわけでもなく、ただ単純に投稿数が多すぎたというだけ。それに対してMasto.Hostは、不手際を詫びるのではなく、料金プランの変更を求め、それに応じない限界鯖へのサービスを打ち切った。100ユーザーまで5ユーロ/月を謳っておきながらとんでもない対応だ。
とはいえ、だ。Masto.Hostのページ最下部「プライバシー、利用規約」には以下の記述がある。

インスタンスに順応できるユーザー数は、インスタンスによってかなり異なります。上記の最大ユーザー数は、単に表記的な数字です (Masto.Host - Mastodonインスタンスのホスティングサービス)
The number of users that each instance can accommodate vary greatly. The up to number of users mentioned above is merely indicative. (Masto.Host - Hosting for Mastodon Instances)

全ての他の問題は、両者間の常識の範囲内で解決されるでしょう (Masto.Host - Mastodonインスタンスのホスティングサービス)
All other issues will be solved using common sense between you and me. (Masto.Host - Hosting for Mastodon Instances)

100ユーザーまでの利用が保証されているわけではない。サーバ管理者の感覚的なものに過ぎない。何か悪いことでもしていない限りだいたいこんなもんでしょ、という数字でしかない。何が悪いことかはわかるでしょ常識的に考えて、と。
ただ、ここで「常識」という言葉をとって、限界鯖の利用され方が常識とはかけ離れているという批判も一部で出ているけど、ここでの常識(common sense)は"何が違法であるか"に対しての常識であって、標準的一般的な利用を指しているわけでないことには留意しておきたい。
サーバの管理のMasto.Hostは、それなりの規模の会社が行っているものとばかり思っていたけれど、どうやら個人運営らしい。それを聞くと、あまり責めるのもなあという気がしてくる。
きっとこういうことだろう。マストドンというビッグウェーブの到来に、ポルトガルの青年は安易にビジネスを始め、一方で日本では安易にサーバを借りてインスタンスを立ち上げた。それぞれの想定が甘く、トラブルに対処できなかった。まるで100ユーザーまで定額であるかのような誇大表示をし、サーバ停止までの強硬手段を取ったMasto.Hostの非が大きいように私には思えるが、限界鯖側が無過失だっとは言い難い。きっとこうしたトラブルは今後も増えるだろう。マストドンに限ったことではない。ちょっとした知識を行動力さえあれば、できることは広がっている。コンピュータの発展に伴い、思い立ったことを実行に移す物理的障壁は年々小さくなっている。インターネットは簡単に国境を越え、小さな思いつきも世界に伝播しうるようになった。目の前に架けられた橋を利用しない手はないが、そのリスクを正確に把握することはあまりに難しい

マストドン 雑感

私はpixivのpawooを主に使っているんだけど、なかなか面白いなあと思う。それはサービス自体を楽しんでいるというよりも、新しいサービス、そのコミュニティを眺めているのが楽しいということであって、興味深いという言葉を使ってもいいかもしれない。意識の高い人たちを中心に、今はまだマストドンというサービスそのものについて、あるいはそこでのコミュニケーションについて語っている人が多く、私はそれを楽しんで読んでいるけれども、マストドンが「新しいサービス」でなくなればそうした言及も減ってくるはずで、そうすると私がログインすることも減っていくんじゃないかとは思う。
アーリーアダプターとかアルファなんとか系の人たちは、インターネット黎明期だとか初期のTwitterだとか、そんなものを懐かしがりながらマストドンを楽しんでいるようだ。曰く、マストドンでは糞リプが飛んでこないやら、人目を気にせずに書き込めるやら。でもそれはマストドンによる面白さではない。まだ馬鹿に見つかっていないというだけに過ぎない。そんなに馬鹿が怖いのならもっとクローズドなサービスを使えばいいのに、何故か彼らはオープンなサービスをばかりを好んで、それも同じIDを使い、当然馬鹿に見つかっては息苦しいと繰り返す。だから彼らの語るマストドンの魅力は「まだ馬鹿に見つかっていない」という点に過ぎず、それはマストドンの特徴でもなんでもない。
マストドンの特徴としては、インスタンスの分散と、ローカルタイムラインの存在が挙げられる。TwitterTwitter社が、はてなハイクはてな社が運営しているサービスだが、マストドンは一社により運営されるものではなく、自らのサーバーにインスタンスを立てて各企業・個人がそれぞれ運営している。そして各インスタンス全体の投稿を眺めることができるのがローカルタイムラインである。ローカルタイムラインが素晴らしいのは、自分でフォローしていない人の投稿が勝手に流れてくるところだ。それは登録したばかりで誰もフォローしていない状態でも楽しむことができるということであり、そして自分が好きこのんでフォローすることのないような人の投稿も目に入ってくるということでもある。他のインスタンスがどうなのかはわからないが、pawooのローカルタイムラインではたくさんのイラストが流れてくる。エロ絵も少なくない。下ネタも多いし、頭のおかしい人も少なからずいる。そうした投稿を軸に生まれるコミュニケーションも見られる。私のTwitterタイムラインでは見られない現象だ。そうした動きが垣間見られるのはマストドンならではの魅力だと思っている。
実感として投稿数が増えてはいないけれど、pawooのユーザー数は増え続けているらしい。一般に、ユーザーが増えると「濃い人」たちの濃度が薄まっていくはずだけれど、イラストを中心としたコミュニティであるpawooらしさは一層色濃くなっているように見える。おそらくは私のような中途半端なユーザーがだんだんと飽きてきたんだろう。きっとこれから新しく始める人たちは、マストドンインスタンスのひとつとしてpawooを選ぶのではなく、pixivの新しいコミュニケーションサービスとしてpawooを始める人たちが多くなるだろう。それこそが正しいマストドンの使われ方なんじゃないかと私には思える。
マストドンTwitterの代替サービスではない。もっと小規模な、乱立する趣味のコミュニティサービスであるべきじゃないかと思える。そのほうがローカルタイムラインがタイムラインとして機能しやすいし、コミュニケーションも活発になる。だからはてなインスタンスを立てるべきとは思えないし、サイバーエージェントが立てるというのも懐疑的だ。クックパッドが立てるというなら歓迎したいし、テレビ局が立てても面白いんじゃないかと思う。実際に、大手よりもテーマの設定されたインスタンスのほうが、ユーザーあたりの投稿数が多いというデータも出ているらしい。もちろん雑談鯖があってもいいだろうけど、それならばTwitterのほうがずっと使い勝手がいい。わざわざマストドンを選ぶ理由があるだろうか。運営側にとってもサーバ代だって馬鹿にならない。テーマの定まった趣味のコミュニティと比べると、広告単価も下がるだろう。企業による本業との相乗効果も考えにくい。おそらくマストドンの目指すべきところはそこじゃない。
マストドンインスタンスとしてpawooを選ぶ人よりもpixivのコミュニティサービスとしてpawooを始める人が増えるだろうということはさっき書いた。マストドンマストドンである必要はだんだんとなくなっていくかもしれない。もっとマストドンらしくないマストドンが出てくると面白いんじゃないか。たとえば、よくできたwordpressサイトはそれがwordpressであることを意識させない。いずれマストドンらしくないマストドンも出てきてほしい。それが技術的に可能なのかどうかわからないけれど。そういえば昨夜あったらしいマストドン会議、ブクマだけして見ていないけれど、まだ見ることはできるのかしら。

 

面白くはあるけど

そんなに面白いだろうかという疑問がまず私にはあって、しかし"そんなに"ってどれくらいだよ定量化しろよボケがと言われてしまうと返す言葉もなくこのエントリーは終わる。
2017年冬アニメで一番の話題をさらったのは「けものフレンズ*1だった。可愛らしいキャラクターの、ごく王道的なストーリーが、チープなCGで描かれた作品だ。それはたしかに面白い作品だった。奇抜な物語展開ではない。各回も、全体を通しての進行も、オーソドックスな展開がとても丁寧に描かれている。それは画作りの残念さとは対称的だった。映像が残念であるがゆえに余計に物語が映えて見えたのかもしれない。CGは残念だった。動きは大味で、背景は空疎だった。ハァハァするサーバルちゃんのおなかの動きには製作陣の熱意を見たが、まぁそれくらいだった。
そんなけものフレンズTwitter中心に異様に盛り上がった。所謂けもフレ構文。"すごーい "とか、"たのしー"とか、そういうやつだ。"○○なフレンズなんだね"という構文は煽りにも使い勝手が良さそうだったが、実際には肯定的な使用が目立った。私の想像以上に作品が愛されていたということなんだろう。はじめはネタかと思っていた。たしかに面白い作品ではあるけれど、そんな全肯定すべきものではないだろうと。ところが最終話前後での盛り上がりが異様だった。あれはネタではなかった。マジだったんだ。いや、はじめはネタだったのかもしれない。それがいつからか作品に惹きつけられ、本気でカバンを心配し、最終話を待ち焦がれ、そしてこれからも続く二人の冒険に安堵したんだろう。
ネタかと思っていた"すごーい"。そのミームから作品に入った人も多いだろう。私は、いったいどんな馬鹿みたいなアニメなんだろうと思っていた。けれども実際に視聴すると、そんなネタフレーズを連呼するものではなかった。ミームからの想像よりもずっと真っ当なアニメだった。どうして彼らの脳は溶けてしまったんだろう。

例えばミライさんのメッセージを真剣に聞いて理解しようとするかばんちゃんの横ではサーバルちゃんが「よくわからなかったねー」と言っている。これは「視聴者は全てを無理にわからなくてもいいよ」という暗喩になっていると思った。わかるフレンズもいて、わからないフレンズもいて、みんながどったんばったん大騒ぎして、わからないフレンズがわかるフレンズに「君をもっと知りたいな」と言える。そんな世界がジャパリパーク

けものフレンズという神話 - さよならドルバッキー

 


このレビューを読んで納得した。そうか、わからないことがこわいんだって。
アニメを見ても、そこに描かれているものすべてを理解することなんでできない。すべてどころか、理解できていないことのほうが多いだろう。仮に理解できたとして、それを言語化するのがまた難しい。だけれど、インターネットに散見されるレビューではしばしば素晴らしい考察が記されている。自分にはそんなもの書けない。だからネットに作品の良さを書き込むことはない。それだけじゃない。みんなレビューに書かれていることを理解した上で鑑賞しているのかもしれない。アニメを見て、自分だけがその魅力を理解できていないのかもしれない。だってあのセリフ、何のことだかわからなかった。きっと自分には作品を見る資格がないんだ。もしかするとそんなことを考える人もいるのかもしれない。そこまで悲観的でなくても、よくわからないことをよくわからないまま放置して楽しむことができないという人は、きっと少なからずいるだろう。だとすると、けものフレンズはそういう人たちにとって福音だったのかもしれない。
"すごーい""たのしー"という言葉があふれる。小難しい講釈を垂れる必要はない。たった四文字の記述がレビューとして成立する。今まで伝えたくて、でも出てこなかった言葉は、たった四文字で十分だったんだ。そうしてはじめて呟かれる、"すごーい"。その気持ちを共有する喜び。アニメから得られた体験が、さらにアニメ自体への評価を上げることに繋がっていったのではないか。今思えば"ガルパンはいいぞ"も同じだったのかもしれない。多くの鑑賞者が競ってその言葉を呟いた。今回はテレビアニメということもあり、その広まりはさらに大きかった。作品を評価するハードルが下がることで、多くの高評価が集まり、その共有がさらに作品の評価を高める。
その現象を気持ち悪いとする評価*2が出てくることも理解できる。一歩離れたところから見ると、その熱狂は異様に見える。アニメの評価は、そのアニメ作品自体のみに拠るものでなければならないのか、そのムーブメント等を含めて評価すべきなのか、という問題もある。含めないとして、社会風刺や他作品のパロディはどうあつかうのか。いったい誰が適切に切り分けて評価することができるんだろうか。

新宿 グッドビュートウキョウ

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画像は東京都庁展望台レストラン。新宿は都庁45階からの眺めを見ながら食事が採れる素敵スポット。しかし当然に屋内よりも屋外のほうが圧倒的に明るいので、露光を食事に合わせると外の景色は真っ白に飛んでしまう。両方を同時に写すためには、めちゃくちゃ照明を焚いて屋内を明るくするか、HDRとかいう糞みたいな合成技術を使うかするしかない。

HDRというのは、暗いところと明るいところ、それぞれに露光を合わせて2枚の写真を撮り、それをコンピュータで上手いこと帳尻を合わせて、どっちも綺麗に写す技術。なんかよくわからない謎技術だけど、我々がその光量の違いを意識せずに目視することができるのは、似たようなことをあっという間に自動で処理しているからであるはずで、人間の身体はものすごい。人体作った奴マジ神。とはいえは写真を撮るからには、肉眼に見えたのと違ったものが残せるからこそ面白いんだということも言える。個人的にはコントラストの高い写真のほうが好き。背景なんて飛んでしまえばいいんだ。

食べたのは鮭とイカのスパゲッティ。麺が異様に細かったので、正確にはスパゲッティではなく別の名称があったんだと思う。そういえばメニューには見慣れない片仮名が記されていた。でもそんなことは食事の美味しさの前では些細な問題に過ぎない。スパゲッティの画像が無いのも大した問題ではない。

新松戸 キアンキャバブ

本当は1000円くらいの店で済ませたかったんだけど、うっかり入ってしまった。たしかケバブは400円から可能で、その看板を見て、店内を覗いてみたら店員さんと目があってしまったので覚悟を決めた。

店内はさほど広いというわけでもないけど、ゆったりとした作りだった。カウンタに数席と、4人掛けのテーブルが4つ、奥にもうひとつ大きなテーブル席がある。ゼンショーならその倍の席を作っただろう。夕方まだ早い時間だったこともあり、客は他にいなかった。あと、先に書いておくけど、画像は無い。そんなものは店名を検索すれば出てくるはず。店のオフィシャルよりも食べログが上位表示されるのは残念だけれども。そのオフィシャルのページに顔出ししている店員さんに接客される。彼がオーナーなのかしら。キッチンでは別の人が調理している。

彼はいくらか訛りはあるものの、十分に流暢な日本語を話す。私がメニューを開くと、ケバブはビーフとラムが終わってしまってチキンしかないのだと申し訳なさそうに言う。そこらにあるエスニック料理店のいい加減な接客とは一線を画するものだと思えた。それではと、私はチキンケバブと、タマゴサラダに、ドリンクを注文する。すると今度は、タマゴサラダも切らしてると言う。じゃあスモークサーモンサラダでと言うと、それも無いと。昨日パーティーがあり使い切ってしまって、明日は休みなので、と。なるほど、わかるよ。それもわかるんだけどさ、正直に言ってしまうと、店の都合なんて知ったこっちゃねえよって話だよね。今何時だと思ってるんだって。こんな時間から商品切らしてるんだったら店なんて開けてんじゃねえよって。素敵接客じゃなかったらそう思ってるところだった。仕方がないからマッシュルームとなんだかのサラダにした。

まず飲み物が来てから、サラダが出された。サラダは小さめな鉢にこんもりと盛られていた。安くない値段だったけど、十分な量がある。遠目にはグリーンサラダのようでもあるが、口に入れるとマッシュルームの香りが広がる。しっかりとしたマッシュルームが使われているのがわかる。ドレッシングはかけるだけでなく、しっかり和えてあるのも嬉しい。

最後にケバブが提供される。肉を増量で頼んだんだけれど、想像していた以上の肉量で出てきた。大口を開いたピタにはこれでもかというほどの肉が詰め込まれている。ああもうどうやって食べたらいいものやら。包み紙を動かしながら無理やり口にほおばる。今書きながら変換候補に「頬張る」と出て、なるほど「ほおばる」とは「頬張る」なのかと気付く。そうすると「口に頬張る」はいくらかおかしな表現かもしれないななどと考える。ケバブはかなりのボリュームだ。これだけの肉を食べているんだから当たり前だ。チキンだからよかったけれど、これがラムだったらしつこかったかもしれない。逆に言えば、チキンは肉増しでちょうどいいという可能性もある。比較できていないので実際のところはわからない。ひとつわかることは、このケバブはうまい。

特別に秀でているわけではないけれど、エスニック料理の店で、味と、ボリュームと、接客がどれも揃っている店は珍しい。コストパフォーマンスも悪くない。このバランスの良さは貴重だ。一品のボリュームが十分なので、何人かで行って分け合いながら食べるともっといいんだろうな思えた。

 

店とは関係ないけど最近思うのは、ほおばる、あるいはかじりつくという行為は、満足感に結びつきやすいんじゃないかということ。たとえば、から揚げってすごく美味しいんだけど、所謂フライドチキンであったり、手羽先やチューリップだど、普通のから揚げを食べているときとは違った幸福感が得られるような気がする。チューリップなんてだいたい大してうまくもないのに。それはたぶん、味の好悪とはまた違った何かが、脳に訴えかけてきているんじゃないか。何かわからないけどその何かプラスの信号が我々を幸福感に導く。私がケバブハンバーガーを好きな理由もそこにあるのではないか。うむ? ケバブハンバーガーを「私が」好きであり、多くの人がそうではないことを考えると、かじり付くことによる充足感は一般的なものではないということなのかもしれない。ううむ。

 

マズイハンバーガー

ハンバーガーというのは素晴らしい食べ物で、100円払えばそこそこ腹の足しになるし、1000円も払えば本当に美味しいものが食べられる。1000円で食べられるものの中でもっとも美味しい料理ではないかとさえ思える。
もちろん美味しくないハンバーガーもある。100円バーガーもそれだ。美味しくない。世の中には美味しくないものが数多く、美味しいものは少ない。けれども、マズイものもまた少ない。美味しくないとマズイは似て非なるものだ。この高度に発展した競争社会において、マズイものは、それを補える他の魅力でもない限り、あっという間に淘汰されていく。マズイものを食べる機会はそうそうない。
結論から言えば、食べたハンバーガーがマズかった。それはつまり、例の100円のハンバーガー以下の味だったということだ。こっちは950円も支払ったのに。ビール代と合わせれば1500円だ。それでもマズかった。

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口に含んで最初に感じたのは焦げ臭さだった。肉が少し焦げている。それ自体は大した問題ではない。肉はレアのほうが、柔らかいほうが美味しいという考えには与しない。レアがのほうが良いときもあれば、ウェルダンがふさわしいときもある。メイラード反応によって旨みを増すためには、ある程度の焦げは仕方ないし、その香ばしいかおりが一層の味わいを引き立てることも多い。だから焦げた香りが即ちNGではないのだけれど、今回はダメだった。いくら噛んでも旨みは出てこなかった。噛めば噛むほど、口の中の水分が奪われていく。パサパサしている。あれっ、何を食べているんだっけ? こんなハンバーガーははじめてだった。
ハンバーガーは旨みもなければ、塩みもなかった。ハンバーグにはわずかに塩が振られているのを感じるが、それだけだった。どうしたことかとメニューを見直すと、塩味を付けていますがお好みでケチャップとマスタードを付けて食べてくださいみたいなことが書かれていた。正確な文面は覚えていない。予め書かれていたことを見落としてしまっていたのは私の責任だが、そんなことは知ったことではない。これを読んでフツフツと怒りが湧き上がってきた。
これは塩味が付いていると呼べるものではない。たしかに塩が振られているのはわかる。でも塩味ってそういうことじゃないよね。下味が付けられていないんだ。だから味は薄いんだけど塩が尖っている。塩味というのは普通そうじゃないだろ。シンプルな味付けで、素材に塩を馴染ませているから、薄味でも美味しく食べられるし、あとからソースを付けても美味しい。だけどここではその一手間がない。だから塩はかかっているけど味がない。マズイ。
しかし、どうしてこんな味付けにしたんだろう。普通シンプルな味付け、薄味にするのは、素材の味をかみしめてほしいとか、味に自信があるからではないだろうか。一方でこのハンバーガーはどうだ。マズイ。肉汁も出ないハンバーグと、香りも旨みもないバンズ、存在していることも忘れてしまいそうな野菜。誰が食べてもウマイと思うわけがない。それは店側でもわかっているはずじゃないのか。それなのに、どうしてこんなマズさを引き立てる方法で提供するのか。普通はもっとマズさを隠そうとするだろう。
私もいつまでもマズさと向き合い続ける必要もないので、ケチャップのディスペンサーを手に取った。ひっくり返してケッチャプを絞り出す。すると口からやや赤みがかった水らしき液体が出てくる。それがケチャップから分離した水分だってことはわかるんだけどさ、でもケチャップどれだけ放置されてたんだって話じゃないですか。なんだかそのケチャップを使うのも嫌になってきてしまって、ハンバーガーだけビールで流し込んで、冷凍ポテトはひとつだけ食べてあとは残して帰ってしまった。今思えばマズイハンバーガーよりも、可もなく不可もない既製品のポテトを食べたほうが良かったような気もする。久しぶりにこんなにマズイものを食べた。

大盛カレギュウ 690円

たしかにね、大盛カレギュウはライスが大盛でありながら、牛丼の具は並盛の量なので、バランスが難しいところはあるよ。
だからってさ、いくらなんでもやり過ぎなんじゃないかな。
知らないよ、俺だって何グラムが適切かなんてわかんないけどさ、そこまで正確な数字は知らないんだけど、それでも直観的にわかるよね。
わかるよ、これは誰だってわかるよ。少ないよ、誰がどう見ても。カレギュウの"ギュウ"が少ないよ。圧倒的に少ない。

心揺れたよ、定食ライス大盛無料の文字を見たときには。
だけど今日は違うんだ。カレギュウが食べたかったんだ。カレギュウを食べるために来たんだから、定食ライス大盛無料には惑わされながらも、100円を追加で支払ってカレギュウ大盛を頼んだんだ。豚バラ生姜焼定食ライス大盛なら590円ですむところを、敢えて大盛カレギュウに690円支払ったんだ。カレギュウが食べたかったから。
もちろんカレーじゃない。カレギュウだ。牛が乗ることに付加価値を見出して、210円余計に支払っている。
それなのに、だ。
それなのにこれが210円の牛の量なのか。
納豆やとろろとトレードオフのミニ牛皿じゃない。オリジナルカレーに210円分の付加価値が加わったカレギュウだ。それにふさわしい量なのか。これが本当にカレギュウのふさわしい牛の量なのかと。

本当にいいのか。
この量でいいと思って提供したのか。
よそう人と運ぶ人、二人もいながら選んだ結果がこれなのか。これが店の総意なのか。本当にそれでいいと思って働いているのか。それともいいわけがないことをわかった上で、それでも差し出しているというのか。